つぼみたちの輝き Story.20

「君の瞳に焼き付けて」


早坂ひかり
12歳 桜ヶ丘中学校1年3組
身長:136cm 体重:31kg 3サイズ:67-48-68

遠野美奈穂
13歳 桜ヶ丘中学校1年3組
身長:124cm 体重:27kg 3サイズ:61-45-62



『ストライク、バッターアウト!!』

 ……日差しが強く照りつける、夏の日のことだった。

「やったね隆君、9連続三振……すごいよ」
「まだだ。1点差……絶対逆転する。いや、しなきゃいけないんだ」

 絶対負けるわけにいかなかった。
 桜ヶ丘エンジェルスのエースになって初めての試合。
 そして、初めて。
 一番見てほしい人が来てくれた試合。

「なんとか塁に出てくれ。頼む」
「……うん」

 そして、最終回。

 7回裏二死一塁。
 4番早坂の打席、初球――。

「でやあぁぁっ!!」

 フルスイング――。

「……」
「…………あっ…………!!」

 美しい音と美しい軌道を残して、打球は場外に消えた。
 小さな球場ゆえバックスクリーンはなかったが、あったとしてもその上を飛び越えていただろう。

 逆転サヨナラホームラン。
 7回を投げ切って1失点。自らの2ランホームランでサヨナラ勝ち。
 誰よりも輝いたヒーローの姿だった。

(かあさん……)

 ゆっくりとベースを一周する。
 一番見てほしい人の姿を探しながら。

(あれ……?)

 前の打席では、桜ヶ丘のベンチの横にいて、透き通った声で隆の名を呼んでくれていた。
 その姿が、ない。

(別のとこにいるのかな……?)

 一塁を回った。
 外野側。人がまばらだからいればすぐにわかるはず。……いない。
 二塁を回る。
 相手側のベンチ付近。……いるわけない。
 三塁を回る。
 あと、いるとしたらバックネット裏。

(そっか、そこの方がよく見えるし……)

 最後の勝利の瞬間を一番いい場所で見ようとしてくれたのか、と思った。
 人ごみの中を視線でなぞる。

 ……。
 …………。
 ………………。

「………………」

 ……いない。
 どこにも、求める母親の姿はなかった。

(…………どうして…………?)

 本塁を踏んだ瞬間には、顔から嬉しさが消えていた。
 チームメートにどう祝福されたかは覚えていない。

(…………なんで…………どうして…………?)

 ただ、呆然としたまま家に帰って、母から言われた言葉は覚えている。

「ごめんなさい――」



「…………」

 無意識に止めていた足を一歩だけ踏み出す。

 わずかに汚れた白球を手に取った。

『1995年7月24日 隆 初勝利』
 サヨナラホームランのボールを、美典が拾ってきてくれたものだった。

「……」
 そっと、机の上に戻す。文字をこちらに向けて、わずかな傾きさえも変えまいと。

 この部屋は、あの時のまま。

 母の部屋。
 病に倒れた母が、最後に家に帰った時のまま。
 このボールは、一番目立つ場所にあったのだ。

「………………」
 今ならわかる。
 母がどんな気持ちで「ごめんなさい」と言ったのか。
 試合の途中で帰ってしまったのは、ひかりの具合が悪くなったからだった。
 隆のことがどうでもいいから帰ったのではない。

 あの時のままの部屋、その中央にあったこのボールが、その証。

 あの時は何もわからず、ただ自分が見放されたと思って、言ってはならないことを言ってしまった。

 ひかりを連れてこないでほしい、と。

 母の気持ちだけでなく、ひかりの気持ちさえもわかっていなかった。
 ひかりはいつもよりひどい下痢に苦しみながらも、母と一緒に試合を見に来たのだ。
 家で休んでいることもできたのに。

 あの時踏みにじってしまった気持ち。
 その償いをする機会は今までなかった。

 ひかりのためなら何でもする……。
 そう思って、できる限りのことをしたつもりでも……ひかりがどれだけありがとうと言ってくれても、罪の意識が消えることはなかった。

 今日がその、初めての機会。
 1年、2年のときは初戦、2回戦で負けてしまい、学校が休みになるまで勝ち残ることができなかった。
 悔しさの鞭で心を叩き、熱光注ぐ夏の日も、寒風荒ぶ冬の日も、ただひたすらに白球を追った。

 血の滲むような練習を続けて、今日。
 初めてあの日のやり直しができる。

 一番見てほしい人が来てくれる。


「ひかり……」

 名前をつぶやく。
 続く言葉はいらない。

 送るべき言葉を描き出すのは、隆の口ではなく左腕。
 白球が描く軌跡が、隆の思いを形にして、漆黒の瞳に焼き付けてくれるはずだ。

 ぐっ、とその左手を握る。

「……よし」
 顔を上げる。
 今は誰もいない部屋に向かって、隆はつぶやいた。
 独り言とは決して思えない、真剣な表情で。


「……行ってきます……」




「…………はぁ、はぁ…………」

 綺麗に切りそろえられた黒髪が揺れる。
 小さな歩幅を精一杯広げて、ひかりは階段を駆け上がっていく。

 額に滲んだ汗、小刻みな息遣い、火照った顔色。
 数十分前と同じような姿でひかりは走っていた。

 が、行き先は違う。

 身支度を整えて家を出た直後に、おなかの奥を激しい痛みに貫かれて玄関に逆戻りし、靴を脱ぎ捨ててトイレに飛び込んだのとは違って、今ひかりが目指す先は、この階段の上、陽光あふれる芝生と土のフィールドを見下ろす、市営野球場のスタンドである。


「はぁ…………!!」

 雲ひとつない快晴の陽射しがひかりの視界を真っ白に染め、可愛らしい二重のまぶたが反射的に下ろされる。

「あ…………」
 少しずつ開けたひかりの瞳に映し出されたのは、両側のベンチから駆け出してくるユニホーム姿の群れだった。
 白色に袖口のラインと桜ヶ丘の文字がその名前通りの色で刻まれたユニホームが桜ヶ丘中学校。対する第二中学校は、白地に真紅の色で校名と校章が描かれている。

「お兄ちゃん……」

 兄、隆の姿はすぐに見つかった。と言うより、桜ヶ丘の一群に目を向けて最初に飛び込んできた背番号が1番だった。桜ヶ丘のエースナンバーは3年間ずっと、早坂隆のものである。

「あ…………」
「……」

 背番号1が見えなくなった。
 隆が、振り向いてスタンドを見上げたのだ。

「……」
 その帽子のつばが、わずかに下を向き、すぐに元に戻った。

(気付いて……くれたんだ……)

 ひかりは体質こそ虚弱だが、視力聴力などは決して弱いわけではない。十数メートル離れたグラウンドで、わずかに変化した隆の表情を見て取ることができるほどだ。

(お兄ちゃん、がんばって……)
 ひかりは、今度は自発的に目を閉じて、そっと心の中でつぶやいた。


「…………」
 目を開けると、選手たちが整列している。試合開始の手続きについてはひかりはよく知らないが、どうやら試合開始には間に合ったようだ。家を出てから一度トイレに戻り、10分近くおなかを押さえて苦しんでいたため、間に合うかどうかが不安だったのだ。

『礼!』
『よろしくお願いします!!』

 礼を終えた選手が散って行く。
 先攻の桜ヶ丘の選手たちは、一度ベンチに戻って行く。隆はもう一度スタンドに目をやり、皆に遅れないよう走ってベンチに戻った。

「ひかり!!」
「ひかりちゃーーん!!」

「え……」
 もう聞きなれた声が、スタンドの下方から聞こえる。
 ひかりと同じ制服姿の少女ふたりが手を振っている。クラスメートの美奈穂とその親友、もはやひかり自身の親友と言ってもいい幸華であった。

「あ……」
 その姿を目にして、ひかりの表情も明るくなった。
 ぱたぱたとスタンドの階段を駆け下り、二人の下へ向かう。

「おはよー……じゃないわね、こんにちは、ひかり」
「ひかりちゃん、こんにちはっ」
「こんにちは、幸華ちゃん、美奈穂ちゃん……」

 スタンドの下段と上段の間の踊り場に、三人だけの小さな輪が作られた。

「ひかりちゃん、朝からいたの?」
「う、ううん、いま来たところ……」
「そっか。あたしたちも今着いたとこ。みながお寝坊しちゃって、ね」
「みな、ちゃんと起きたもん!」
「ベッドの上でぬいぐるみにしがみついてるのは起きたって言わないの」
「ちょっとだけだもん……」
「くすっ……」
 ひかりは口元に手を当てて、頬を緩めた。

 女の子として当たり前の、楽しいおしゃべり。
 小学生の間、ひかりにはそんな機会が一回もなかった。

(今日は…………だいじょうぶ……かな…………)

 そっと、自分のおなかに意識を送る。
 朝のうちに何度も排便を済ませたせいか、今のところおなかは落ち着いているようだ。

 下痢。
 毎日のように下ってしまうひかりのおなかは、終わりのない苦しみを彼女に与え、あらゆる楽しみを彼女から奪っていた。

(ううん、わたしだけじゃない…………)

 ひかりは自分の下痢によって、自分の大切な人からも楽しみと、時間と、幸せを奪ってしまっていたのだ。

(お兄ちゃん…………ごめんなさい……)

 ひかりがそっと、唇を噛み締めた時。


  ウウウゥゥゥーーーー…………。
「……あっ!!」
「……試合開始よ、ひかり!」

「…………うん…………」

 試合開始を告げるサイレンが、この日一番強い陽射しの下で鳴り響いた。



「てりゃ!!」
  キィン!!

 サイレンが鳴り終わらないうちに、先頭打者の打席は終わった。
 桜ヶ丘の1番、成瀬陽一郎がコンパクトに振りぬいたバットは真ん中高目の直球をとらえ、綺麗にセンター前へ運ぶヒットを放ったのだ。

「わぁ……」
 客席でひかりも手を叩いている。父母を中心とする桜ヶ丘の応援団が上げた歓声にかき消されてしまっているが、その顔は喜びに包まれていた。
「ねえ、ひかり」
「ど、どうしたの、幸華ちゃん?」
「いまのがヒット?」
「………………」
「いやー、あたし野球見るの初めてで…………」
「みなもみなも。ひかりちゃん、教えて?」
「う、うん。えっとね…………」
 ひかりは野球のやの字から二人に説明する羽目になった。が、もちろん嫌な気分ではない。
「今のはね…………」
 いつか兄の試合を見に行くことを夢見て、ルールを覚えるために本を読みふけった日々のことを思い出していた。

「……早坂先輩、予定通りでいいんですね?」
「ああ」
 桜ヶ丘の2番は、藤倉学。
 打撃技術は未熟この上ないが、1回戦、2回戦を通じて一芸に秀でていることを示したため、上位の打順に抜擢されたのである。

「よし……」
  コンッ!!

「今のが、送りバントって言ってね…………」
「へぇ……」

 自らがアウトになることを厭わず、味方のチャンスを広げる。1回表無死一塁からでも迷わずに実行される犠打は、学生野球の魂とも言える戦略である。
 藤倉学は、そのバントの正確さにおいてチームメートの追随を許さない。バントの名手とは、難しいバントを決める選手を言うのではなく、バントしやすい球を選んで当たり前のようにバントを決める選手のことをを言うのである。眼鏡をかけた外見からは選球眼が良いようには思えないが、動体視力に関しては決して劣ったものではない。

「その調子だ、藤倉」
「はいっ」
「藤倉君、ナイスバント」
「あ…………ありがとう…………」
「さて、これで一打出れば……」

  スカッ……。
「あ」
「ありゃ」
「あ……」

「今のはなに?」
「三振……アウト……」
「だめってことだよね」
「うん……でもね」

 ひかりは、今までにない真剣な目つきでホームベースに視線を伸ばした。

『4番ピッチャー、早坂君!』

「…………」
 その呼びかけを受けて、隆は左足からそっと打席に入った。
 足を肩幅程度に開き、握ったバットをわずかに後ろに傾けて、きっと視線を投手に向ける。
 その視線が一瞬交錯し、投手が投球動作に入る。やや横手から繰り出すストレート。

「っ……」
 ピタッ。

 動かしかけたバットが体のわずか後方で止まった。

『ボール!!』
 インコースにボール一つ外れる球。学を上回る隆の選球眼をもってすれば、見切るのはたやすい。

(さあ来い…………)
 2球目も同じ構えで待つ。
 同じ横手のフォームから、ボールが指を離れる……。

「あまい!!」
 吸い寄せられるように真ん中に飛び込んでくる、棒球。
 引き付けて開始したスイングの描く扇形が、ボールの中心をとらえる……。

 寸前。
「なにっ……?」
 ボールがわずかに、軌道を変えた。
 下へ、ボール半分。

「く……」
  ガキッ…………。

 完璧に引っ掛けた打球がピッチャー前に転がる。
 隆はそれでも諦めず、左打席を飛び出して一塁へ全力疾走。

「ぐ……」
 ……パシッ。
『アウト!!』

 だが、スライディングをかけるはるか手前で、投手の送球が一塁に達した。
 4番早坂の第一打席は、ピッチャーゴロに終わった。

(なかなかやるな…………)
「へへ、4番が得点圏であっさり凡退じゃ、この試合先が見えたな」
「…………」
(……好きに言ってろ)
 桜ヶ丘は無名弱小チーム。その評判はそこで3年間を過ごした隆が一番良くわかっている。隆が勝利することで、初めてその評価が変わるのだ。ゆえに大抵の野次は聞き流すことに慣れていた隆である。
 が、後に続いた言葉は聞き捨てならなかった。

「きょうだい揃って役立たずかぁ?」

(…………!?)
 一瞬、何を言われたのかわからなかった。
 きょうだいといえば、自分とひかりのことしかない。だが、二中のピッチャーがなぜ、ひかりのことを知っている……?
「妹は姉貴にあっさり負けたバレー部の足手まとい、そして兄貴はオレに3タコにされる野球部のA級戦犯」
「おいおい、4打席目はどうする?」
「ねぇよ。桜ヶ丘相手に3人もランナー出してやるもんか」
 二中ベンチから続けざまに野次が飛ぶ。だが、隆には相手のピッチャーの言葉しか聞こえていなかった。正確には、その言葉の一部。

(こいつ…………昨日の……!!)
 ひかりと純子から、バレー部の試合の様子は聞いている。相手は目の前と同じ二中。そして、最大の難敵だったのが、長身にして知的な指揮官、二葉真弓。
 目の前の投手は、その弟……学年が3年で同じということは、双子の弟……。
「このオレ、二葉仁志ふたばひとしの名前、しっかり覚えておくんだなっ!」

「…………」
 隆には、その名前を覚えられる自信はなかった。
 隆の心を満たしているのは、怒り。
 自分のことならどう言われてもいい。勝つも負けるも己の責任。だが、ひかりのことを悪く言われるのだけは、絶対に許すことができなかった。

「早坂先輩、ドンマイ……です……………………先輩?」
「ん……?」
 ベンチに戻った隆は、百合の怪訝な視線で我に返った。
「先輩、その……すごく怖い顔でしたよ…………何かあったんですか?」
「…………いや…………なんでもない」

 隆はそうつぶやいて、グラブをつかんでベンチを飛び出した。
 その視線は、1塁側ベンチの中、二中の4番ピッチャー、二葉仁志を射抜いていた。

(俺は…………こいつを許さない!!)

 隆の心の中の火が、静かに燃え上がろうとしていた。


「ひかりちゃん、こんにちは」
「え……」
 突然かけられた声に一瞬驚いて振り向くと、そこには照りつける陽射しをさえぎる黒髪の簾があった。
「……白宮せんぱい…………こ、こんにちはっ」
「え? 白宮先輩!?」
「しろみやせんぱい?」
「え、あ…………」
 幸華と美奈穂の即応にひかりは戸惑った。白宮純子と言えば1年生でも知っている、桜ヶ丘の天使とも呼ばれる存在である。その純子と親しげなひかりの様子は、特に幸華には驚きだったに違いない。
「え、えっと……白宮せんぱいは……その……バレー部でお世話になってて」
「お世話だなんて。昨日はひかりちゃんに助けてもらったんだもの」
「えーっ? そうなの、ひかり?」
「ひかりちゃん、すごい!!」
「え……あ…………」
 赤面するひかり。もっとも、照れ隠しと言うよりは、どのように『助けた』かを思い出して覚えた恥ずかしさの方が強かったのだが。

「ひかりちゃん、そちらはクラスのお友達?」
「あ……は、はい。えっと、同じクラスのみなほ……遠野美奈穂ちゃんと、1組の香月幸華ちゃんです」
「はじめまして、香月幸華ですっ。白宮先輩の噂はそれはもうかねがね聞き及んでます。お、お会いできて光栄でありますっ」
 背筋を正しすぎて
「くす……そんな緊張しないでください。そちらの子が美奈穂ちゃん?」
「はい。とおのみなほですっ!!」
「可愛いのね。体育館でいつも演劇の練習してるの、覚えてるわ」
「ほんとう? うれしいな〜」
 周りの階段まではみだしてぴょこぴょこと跳び回って全身で嬉しさを表現する美奈穂。
「よかったわね、みな」
「くす……」
 幸華がぽんと小さな身長の頂点を叩き、黒髪に彩られたふたつの顔に同時に笑みが浮かんだ。

「あの、ひかりちゃん、相手のピッチャーだけど……」
「あ…………」
 手書きのスコアボードに書かれていた名前には、ひかりも見覚えがあった。
「二中の二葉さんって……もしかして……」
「うん……昨日の試合で戦った、二葉真弓さんの弟らしいわ」
「そう……ですか……」
 二葉真弓。二中バレー部の司令塔で、長身による鉄壁のブロックと、知性による巧妙な作戦の前に、桜ヶ丘バレー部は善戦むなしく敗れたのだった。もう一人、強力なアタックを誇るエース、奥河千佳の存在はあったが、二葉の存在がなければ二中の勝利はなかっただろう。
 もっとも、純子もひかりも、試合に負けたことを悔しがることはあっても、その相手を憎むことはない。特に純子にとっては、高校に上がってからも対戦するであろう好敵手とも呼べるのだ。
「でも、さっき、早坂くんと何か……ひかりちゃん、何か心当たりはない?」
「え……い、いえ……」
 隆と二葉が何か言葉を交わし、その直後に隆の目つきが変わったのもひかりには見えた。だが、その言葉の中身までは聞き取れなかった。以前になにか因縁があったという話も聞かない。
「そう……それならいいの。ちょっと、気になっただけだから」
「は、はい……」

「なんだか複雑ね〜」
 それまで傍観者に徹していた幸華が、会話に生まれた一瞬の間に言葉を挟んだ。
「あ、ご、ごめんなさい、幸華ちゃん」
「いいの。それより、白宮先輩?」
「はい、何かしら?」
「ひかりのことはひかりちゃんで、隆さんのことは苗字で早坂くん、って、何か特別な理由でもあるんですかっ?」

  ぴたっ。

 純子の動きが綺麗に静止した。
 風に流れる髪のゆらめきすら止まったような、それほど完璧な硬直だった。

「え……あ……あの…………それは…………」
 さっきまでの流れるような口調とは異なり、あっという間にしどろもどろになる純子。言葉を出そうとするたびに顔が赤くなっていく。
「あ、あの、白宮せんぱい……」
 ひかりもフォローしようとして言葉が出ずに悩んでいた。

(そっか、噂どおりなわけね)
 野球に関する因縁話には全く入り込めなかった幸華だが、一瞬にして自分の得意な領域に話を持ち込んでしまった。
 ……もちろんそれは恋愛問題。白宮純子と早坂隆の仲は当人以外なら誰でも知っている話なのだった。

「ねー、さっちゃん、ほら、隆おにーちゃんが投げるよ」
 その話にも入り込めずグラウンドを眺めていた美奈穂が声を上げた。
「あ……」
 その声が純子の硬直を解き、ひかりを安心させ、幸華を少し残念がらせながら、みんなの視線をマウンドに向けた。
 その4対の瞳が大きく見開かれたのは、次の瞬間である。


「でやあああああっ!!」

  ズドンッ!!

 …………。
「あ……」
 遠くスタンドから見てすら、ボールの軌跡が一瞬の光芒にしか見えなかった。打席に立つ二中の一番打者には、指先を離れた白球が消えたように見えたに違いない。藤倉のミットを叩く強烈な音を耳にするまで微動だにできず、今はただぽかんと口をあけている。

『……ス、ストライーク!!』
 一瞬も二瞬も遅れて審判が右手を上げた。コースはど真ん中だったが、打てない球をボールと定義するなら確実にそう宣告されることだろう。球速は140kmを優に越えていた。

(さすが早坂先輩……)
 学が左手の痺れを感じながら隆に返球する。その一球に込められた気迫が、学に次のサインを決めさせていた。

  バシィッ!!
『ストライク、ツー!!』
  ドンッ!!
『ストライク、バッターアウト!!』

 3連続ストレートで三振。
 学は遊び球を一切含めなかった。

 今までで最高の球威。その勢いを削がないため、学は3球勝負を決意したのである。
「…………」
 次の打者が打席に入る前に、隆は学に向かってひとつうなずいた。


『スリーアウト、チェンジ!!』

 その後も6回、ミットを撃ち抜くような音が球場に響き、隆はわずかに下を向いてベンチに戻っていった。
 三者連続三球三振。


「すっごぉい…………」
 幸華があんぐりとあけた口から、ただ驚嘆の言葉のみが漏れる。野球の試合を見るのが初めてであっても、隆が地面を踏みしめる音、剛速球が学のミットを叩く音がここまで響いてくる、その凄まじさは確かに伝わってきた。

「早坂くん、今日はとても調子いいみたいね」
 ベンチにもどって行く後ろ姿を見つめたまま、純子がつぶやいた。
「………………」
 だが、すぐそばにいたひかりからの反応は返ってこなかった。

「……ひかりちゃん、どうしたの? ……もしかして……」
「あ、ち、違うんです…………その…………」
 おなかの調子が悪くなったのではと気遣われたため、あわてて顔を赤くして否定する。
 声がでなかった理由は簡単だった。

「わたし…………お兄ちゃんの試合をちゃんと見るの、初めてだから…………」
「え……」
「あれ?」
「そうだったの?」
 3人が意外そうな顔をする。

「はい…………その…………」
 その後に続く内容は説明できなかった。

 ひかりの脳裏に浮かんでいた光景は、5年前の夏の日。


 隆が少年野球のチームでエースピッチャーになり、その初めての試合。
 容赦なく日差しの照りつける、暑い日だった。
 母と一緒に試合を見に行くつもりだったひかりだが、その日は……その日も、朝から下痢が止まらなかった。あまりの暑さに、ただでさえ弱い消化器官がほとんど役目を放棄してしまっていたのである。
 母は、そんなひかりを一人にするわけにはいかないと、一緒に家に残ろうと言ってくれたが、母のためにも隆のためにもそれはできなかった。ギュルギュルと鳴り続けるおなかから手を離し、憔悴した顔に笑みを浮かべ、「だいじょうぶ」と言った。

 嘘がばれるのに時間はかからなかった。いや、母は家を出る前から気付いていたことだろう。ひかりはイニングの合間ごとにトイレに駆け込み、試合の終盤でついにトイレまで間に合わずにおもらしをしてしまった。母は嫌な顔一つせずに後始末をしてくれて、家まで連れて帰ってくれた。
 そのために、母は帰ってきた隆を見るなり謝らなければいけなくなってしまった。ひび割れた隆とひかりの間の関係を取り戻せたのは、母が最後に残してくれた言葉のおかげだった。

 隆はいま、母のため、そしてひかりのためにこの試合に臨んでいる。口には出さなかったが、その気持ちは痛いほど伝わっていた。

「………………」
 そして、ひかりもこの試合を前に、一つの決意をしていたのである。


 二回表、桜ヶ丘中学校の攻撃。
 強振が売りの5番芝田がライトフライに、巧打に秀でる6番古西がショートゴロに、ある意味彼ららしい凡退に終わった。

「へへ、軽い軽い」
 マウンド上の二葉が、この回6球目の投球動作に入りながらつぶやく。
「所詮、毎年一回戦負けのチームだな。このまま完封してやるぜ!」

「そうは行くかぁ!!」
  パキィン!

「あ……!!」
「やった!」
「やったぁ!」
 桜ヶ丘のスタンドがぱぁっと明るくなる。

「ひかりちゃん、今の人だぁれ?」
「え、えっと…………」
「遠くて顔まで見えないもんね……」
「えと…………7番だから…………」

「いいぞー、ふくふく!!」
 ひかりたちの後方から大きな声が響く。
「ふくふく?」
「あ…………福島さん、です……2年生の…………」
 その言葉の断片をヒントに、ひかりが選手の名前を思い出す。
「でも……ふくふくって、なに?」
 一同はくるりと振り返った。

「あ、来島センパイ」
「来島先輩……あの……家庭部の?」
「うん。ちょっと変わった人だけどね」

「ふくふくーー!!」
「さ、沙絵さん、あの、こ、声が……」
「んに?」
「その、声、大きいから…………みんな、見てます……ほら、福島さんも……」
「に……いけないの?」
「そ、そうじゃないですけど…………うぅ……」

「あ、ふみねさんもいっしょだ」
「演劇部の先輩ね」
「うん!」
「お友達の応援かな?」
「かもしれないわね」

  カキン!!
「あっ!!」
 8番の恵庭が放った打球はピッチャーの頭を低い軌道で越え、二塁手と遊撃手が懸命に伸ばしたグラブの先をかすめてセンター前に抜けた。
「やった!!」
 連打で二死ながら1、2塁である。

『9番、ショート、朝比奈君』
「そろそろ本気を出さなきゃならないようだな……」
 マウンド上の二葉は不敵に口元を緩めた。
「行くぜ!!」
 セットポジションから上げた足を素早く振り下ろし、キャッチャーミットを見据えて投げ込む。

「てい!!」
  コキッ!!
 バットの上面をかすめた打球がバックネットを叩いた。

「次っ!!」
 ボールが一直線に外角低めに吸い込まれていく。
「っ!!」
 バットの軌道がそれを追う。
  チッ!!

『ファール!!』
「……なんだ、さっきまでと変わらないじゃないか」
「ふっ……そんなセリフはこれを見てから言え!!」

  シュルルル……!!
 ボールがホームベースに向かう。
 その中央をめがけて。

 …………ど真ん中だ。
 しかもスピードはさっきより遅い。

「いただき!!」
  ザッ……
  ブンッ……!!
 絶好球をとらえようと力いっぱい踏み込んだ朝比奈は、その力を全てバットに込めて振りぬいた。

  カクン……!!
「えっ……!?」
 バットと正面衝突するはずだったボールが、消えた。
  ドス、バシッ!!
 音だけが聞こえた。
 朝比奈の視界の外で発せられた音は、ボールが地面でワンバウンドし、キャッチャーミットに収まる音だった。

 …………ポンッ。
『アウト!!』
 キャッチャーミットで腰を叩かれた朝比奈は、やっと自分の打席の結果を知ることができた。

「あぁ〜〜……」
「な、なにあれ……? ど真ん中じゃないの?」
「…………フォーク……ボール……」
「あれだけでわかるの、ひかりちゃん?」
「は、はい、たぶん、ですけど…………」
 ひかりは時々言葉に詰まりながらも、フォークボールの説明を始めた。
 回転しているボールは空気抵抗により、進行方向に回る側は速く、進行方向と逆に回る側は遅く進む。オーバースローの球はバックスピンがかかっているため、下側より上側が遅く、そのため上向きの力を受ける。フォークボールは指の間にボールを挟んで投げることにより、バックスピンを軽減させることで浮力を減少させる。結果、ボールは通常のストレートの軌道から打者の手前で落ちる変化を見せる。
 特に球速のある投手にとってはこの変化球の威力は絶大で、ストライクゾーンからボールに落とすことにより面白いように空振りを奪うことが出来る。プロ野球の世界にも、ストレートとフォークボールだけで相手をキリキリ舞いさせる投手は少なくない。

「すごーい、ひかりちゃん理科の先生みたい」
「そ……そんなことないよ……その、聞いただけだから…………」
「ねーねー、隆さんはそのフォークボール、使えないの?」

「え…………えっと…………ううん、たぶん投げないと思う……」
 ひかりは少し言葉に詰まった後、推測の内容を続けた。隆は家では野球のことをあまり話していなかったし、中学生になった隆の実戦投球を見るのはこれが初めてなのだ。

「私も見たことないわ…………もしかしたら、何か欠点があるんじゃないかしら」
「は、はい……わたしも、そう思います……」
 中学生としては圧倒的な球速を誇る隆がフォークボールを使いこなせば、相手は手も足もでないだろう。隆も学校の勉強こそからっきしだが、野球の知識は決して人に劣るものではない。その隆があえてフォークを投げないのには、何か特別な理由があるに違いない。純子とひかりはそう結論付け、この二人の一致した意見なら、と幸華や美奈穂もうなずいた。
 …………なお、これは隆に対して最大級のひいき目を持つ二人の女の子が出した結論であることを忘れてはならない。


「おおっ!!」
 二回裏、二中の攻撃。両校の観客席からひときわ大きな歓声が上がった。
 ドン詰まりのファーストゴロに対する歓声としては異常なほど大きい。それは、隆の投球に初めて、二中の打者がバットを当てたからだった。

「くっ…………」
 一塁に達するはるか前でフォースアウトを宣告された二中の四番打者は、悔しげに自らの手を見つめた。
 その手が小刻みに震えているのは、打球に当てたときの振動が残っているせいである。

「どうだ?」
「速いな。コントロールもいい。こりゃほんとに完封してもらわねぇときついぜ、ヒトシ」
「へっ、言われなくったってわかってるさ」

  ガキッ!!

 金属バットがへこみそうな音を立て、力のない打球がふらふらと上がった。セカンドがじっくり待って、ひたいの前で正確に捕球する。

「こりゃ1点勝負だな。なんとかランナー出して送って……」

  ズドンッ!!
『ストライク、バッターアウト!!』

「…………まあ、とにかく頼むぜ、エース」
「お、おう」
 苦笑が浮かぶ二中ベンチから、少し慌てた足取りで守備につく選手たちが駆け出してきた。


『3回の表、桜ヶ丘中学校の攻撃は、1番センター成瀬君……』

「そりゃ!!」
 桜ヶ丘中学校の切り込み隊長、1年生1番打者・成瀬陽一郎の特技は初球打ち。足は速いものの、1年生という経験の少なさから選球眼はどうしても一回り落ちる。とにかく当てて内野安打を稼ぐのが彼の攻撃パターンである。

  パスッ。
「ありゃ」
 しかし、内野フライでは自慢の俊足も活かしようがない。1死走者なし、打者は2番藤倉。

「えいっ!!」
  ブンッ!!
 コンパクトなフォームながら勢いのある空振りである。

(…………なんだ、ワンバウンドのクソボールを振ってやがる)
 二葉は心の中でほくそえんでいた。
(まあ、ボールも見えないメガネ野郎にはボール球で十分か)
「はぁっ!!」
「ほりゃっ!!」
「てーいっ!!」
「どりゃっ!!」
「………………」

『ボール、フォア!!』
「あれ?」
「おいおい、しっかりしろよヒトシ」
「チッ、メガネにだまされたぜ……」
 学は近視ではあるが、眼の焦点距離と動体視力には直接的な相関はない。眼鏡をかけているからといってボールが見えないわけでは決してないのである。

「さあ来い!!」
 3番ファースト、木下が気勢を上げる。前回の打席では先制の好機で三振に倒れていた。その分の悔しさをこの打席にぶつけるつもりである。
「ぬかせ!!」
 その勢いに対し、ピッチャーの二葉は……。

  ガコッ。
「うが!?」
「悪ぃな、オレの勝ちだ」
 ボテボテという擬音が頭の中に響いた。

 マウンドから駆け下りた二葉はピッチングと同じ素早い送球を二塁に送る。二塁手がボールを受け取った動作から送球動作に移り、一塁にボールが渡った。

『アウト!! ダブルプレー!!』

「あぁ〜〜」
 幸華が悔しげな声を上げた。
「…………で、ダブルプレーってなに?」
「あ……え、えっと…………」
 苦笑を浮かべながらひかりが説明する。

 打球がフェアグラウンドに落ちた瞬間に打者と走者には次の塁に進む義務が生じる。まず二塁に進む義務がある走者をアウトにし、打者走者を一塁でアウトにする、ワンプレーで二つのアウトを取るのがダブルプレーである。

「へ〜〜〜」
「隆おにーちゃんは? おあずけ?」
 ネクストバッターズサークルにいた隆がベンチに戻っていく。
「うん……」
「チャンスで早坂くんに回せないのは残念ね……」


 残念そうな表情を浮かべた純子たち。
 しかし、すぐにその表情は変わった。

「うがっ!?」
 ファールフライ。
「くっ……手が出ない……」
 見逃し三振。
「ままよ!!」
 空振り三振。

「やったぁ!!」
「隆おにーちゃんすごい!!」
「うん…………」
「……ボールが前に飛んでないわ……」

 3回まで一人のランナーも出さない隆のピッチングに、スタンドの女子達は感動しきりだった。

「3回までパーフェクト。今日の早坂クンは絶好調ですね」
「……?」
 突然背後から響いた声に、まずひかりが振り向き、続いて純子が顔を声の主に向けた。
「あら…………弓塚くん?」
 桜ヶ丘の男子夏服は、校章のワンポイント入りのシャツ。それを第2ボタンまで開けて着崩した姿の男子、弓塚江介がそこに立っていた。
「おう、こんちは白宮サン。あー、ひかりちゃんとみなほたんにははじめまして、かな」

「え…………」
「ふぇ?」
 突然見ず知らずの男子に声をかけられたひかりと美奈穂は驚きの声を上げる。
「うんうん。驚いた顔もかわいいなぁ、さすが一年生のツートップだ」
「ちょ、ちょっと弓塚センパイ、あたしには挨拶なしですか!? それに何そのツートップって?」
「そりゃもちろん炉の字…………いやいやいや何でもないよ」
 意味不明な言葉を口走る江介。放っておくとどこまでも暴走しそうだ。
「ゆーみーづーかーせーんーぱーいっ!!」
「ちっちっちっ。おれの呼び方は次の中から選べと言ったはずだ。1、隊長殿、2、ご主人様、3、せんぱい(はぁと)」
「2はなんですか2は。だいたいちゃんとセンパイって呼んでるじゃないですか」
「はぁとが発音されてないぞサチーカ少尉」
「どー発音するんですかっ!! お手本見せてくださいよっ!」
「それは男には決して発音できない微妙なこう……」

「…………」
 幸華と江介の会話のペースについていけないひかりが小さく口を開ける。おしゃべりな美奈穂や落ち着きのある純子ですらもどうしていいかわからない、嵐のような会話である。

「…………あー、ごめん、みな、ひかり……この人、放送部の先輩で弓塚江介さん。うちの委員長のお兄さん……のはずなんだけどなぁ」
「えっ……弓塚さんの……!?」
 これ以上ないほどの驚きに満たされていたひかりだが、その限界をもさらに越える驚きが幸華の言葉によってもたらされた。目の前にいる宇宙人のような男子が、あの弓塚潤奈の兄だというのである。

「あらためてはじめまして、ひかりちゃん。噂はよく聞いているよ。……早坂、っと、隆のやつもうちの潤奈もあまり語ってはくれないんだけどね」
「う、噂……」
 もしかして、おなかが弱くて下痢をしてばかりだということが3年生にまで噂になっているのではないかと、ひかりの小さな胸に不安がよぎる。

「学年一位だって? 潤奈がくやしがってたぞ」
「え…………」
 ひかりはぱっと顔を上げた。純子の家で話した時など、悔しがる素振りも見せなかった潤奈を見て、できる人は余裕があるものなんだな、と感心していたから、江介の言葉は意外だったのである。
「……で、でも同点ですから…………」
「謙遜する必要はないさ。学年一位っつったら、白宮サンと並んだことになるんだぜ」
「え……」
「そういえばそういうことよね……すごいじゃない、ひかり!!」
「わ、わたし、別にそんな……」
「ひかりちゃんが努力した結果でしょう? 胸を張っていいと思うわ」
「…………」
 顔を赤くしたままうつむく。当惑の中に嬉しさが混じった表情だった。

「ねー、みなは?」
「ああ、みなほたんはそこにいるだけでいいのさ。それだけでみんなが癒される」
 気のきいたセリフを言ったつもりの江介だったが、しかし美奈穂は頬をふくらませていた。
「むー……みなも期末テスト、7番だったんだよ?」
「え? うそだろ?」
「本当ですよセンパイ。みなは見た目よりずっと勉強できるんだから」
「さっちゃん! 見た目よりって、みなが頭よく見えないってこと!?」
「あ、ううんそうじゃなくてね……」
「ちがうもん!! みなはちてきなおとなのれでぃーだもん!!」
 知的な大人のレディーとはかけ離れた一人称を用いながら高らかに宣言する。が、虚勢を張った次の瞬間、美奈穂のまぶたが震えだした。

「みな、お子様じゃないもん……ぐす…………うえぇぇん…………」
「み、美奈穂ちゃん……泣かないで」
 ひかりが慌てて、美奈穂と江介の間で視線を巡らす。
「あーあ、弓塚センパイが泣かせた」
「ちょ、ちょっとまて……おれのせいかよ」
「みなって一度泣き出すとすぐには泣き止まないのよねぇ……弓塚センパイ、ひどい。いじめっこ。女の敵」
「ちょ、そこまで行くのかよ」
「そこまで言われたくなかったら、お詫びの気持ちを表してください」
「うー、ごめん、みなほちゃん、おれが悪かった」
「ぐす…………うぇぇぇ……」
「ほら、こんなに泣いてたら言葉じゃ伝わりませんよ。かわいそうに、こんなに泣いちゃって……のど渇いちゃうわよね」
「………………」
 江介が少し歯軋りをしながら視線をそらした。幸華の意図を汲み取ったがゆえである。
「…………ね、センパイ?」
「わかったよ。ジュースくらい買ってきてやるよ」
「さっすが、わが隊長殿。あ、あたしの分もお願いしますね。もちろんひかりと、白宮先輩にも」
「…………はぁ、今日は一本取られたか……」
 口調の割には落ち込んだ様子も見せず、江介は球場の外へと軽快に駆けていった。
「…………幸華ちゃん、その…………いつもこんなことしてるの……?」
「そうね……弓塚センパイとしゃべる時はいつも真剣勝負よ」
「……………………」
 ひかりは小さく自分の体を抱え込んだ。
 自分はとても、こんな会話をできるようにはならないだろう。年上の男子と親しげに話すなど、いつまでたってもできそうにない。
「ひかりちゃんは、無理してあんな人と話そうとしなくていいのよ。ほら、ひかりちゃんには素敵なお兄さんがいるじゃない」
「…………う、うん…………」
 ひかりは少しだけ赤らんだ顔を前に向けた。
 その視界に、一番頼もしい姿が映る。


「早坂先輩!! がんばってーーっ!!」
 ベンチからの声を背に、隆は打席の中で顔をマウンドに向ける。
「…………」
 その表情からみなぎる気迫が、投球動作を始める前の二葉を貫く。
「っ……気合だけで打てるほど、野球は甘くねぇよっ!!」
  ビュッ!!
「ーーーっ!!」
 かっと見開いた目が、ボールの軌道を完全にとらえる。ベースの手前でわずかに落ちる変化の先に、バットを繰り出す。フルスイング……!!

  ブンッ
「………………く……」
「…………おお〜……危ねえ危ねえ」
 空振り、ワンストライク。バットはボールに当たらず空を切った。

「これが扇風機ってやつか。涼しくて気持ちいいぜ」
「…………早く投げろよ」
「うるせえ、言われなくても!!」
  シュッ!!
「甘い!!」
 ストライクゾーンに飛び込んできたスライダー。数十秒前のリプレイを見ているかのようなフルスイング。
  キィン!!

「なにっ!?」
「あっ……!!」
「わあっ……!!」
 衝撃と歓声。

 高々と白球が舞い上がる。
「行った!!」
「ホームラン!!」
 桜ヶ丘のベンチ、その上の客席から嬉しげな言葉が飛び交う。

「惜しいね……」
 その喧騒が小さく聞こえる、客席の上段から小さな呟きが上がった。
 打席の結果を最も早く言い当てたのは、この一言だった。

 センターフライ。
「ああ〜〜……」
 歓声と同じ声量でため息が漏れ、反対に二中側から歓声が上がる。背走しながらフェンス直前で捕球したセンターのファインプレーではあったが、打球の勢いが失速したように見えたのは事実だった。

「惜しい〜」
「惜しい〜〜」
 幸華と美奈穂が揃って声を上げる。ひかりも残念そうな表情を浮かべていた。

「ありゃ、なんだ早坂はアウトか」
 足音とともに江介が帰ってきた。
「弓塚センパイ? もう、どうして見てないんですか!」
「おまえがジュース買いに行かせたんだろうが。文句言うならおれがもらうからな」
 抱えてきたジュースを揺らしながら言い放つ。自販機で買ってきたため、袋に入っていないのだ。
「あーー、だめです、あたしのジュース!!」
「みなにもー!!」
「はいはい。ほらほらみなほたん、甘くて冷たいジュースだよ」
「わーい!!」
 飛びつくようにジュースをもぎ取る美奈穂。くるりと振り向いた時にはプルタブを開けて飲み口を口に当てている。
「もう、みなったらほんとに甘いのが好きなんだから…………え?」
 美奈穂の持っているジュースを目にした瞬間、幸華の顔色が変わった。
「幸華ちゃん?…………あっ……!」
 ひかりも同じことに気付いた。

「みな、それ乳飲料よ、飲んじゃだめ!!」
「え……? でもおいしいよ?」
「おいしくても、いちごオレって牛乳が入ってるの。だから、ほら」
「やだ、ぜんぶみなが飲むもん」
「美奈穂ちゃん、本当に……」

「みな、大丈夫だもん……!?」
  ゴロゴロキュルキュルクキュゥーーーーーーーーッ!!
 美奈穂の小さなおなかから水音が響く。全く消化できない乳糖分を摂取したことにより、急激におなかが下り始めたのだ。
「あー…………ほら、だから言ったじゃない」
「う、うぅーーーー…………」
「み、美奈穂ちゃん、おトイレ行こう?」
「う、うん…………」
「あ、あたしが連れてくから。ひかりは試合見てていいよ」
「で……でも……」
「さ、さっちゃん…………もれちゃう…………」
「あああ、ほら、行くよ!!」
 幸華は美奈穂の手を取って走り出した。

「お、おれ……何か悪いことしたのか?」
「…………あの……実は…………」
 残されたひかりは、美奈穂の体質について説明をしなければいけなかった。

 市営球場トイレは、客席の2階部分にある階段を下りた先、中2階の外周通路の端にある。外周通路はネット裏、一塁側、三塁側、ライト、レフトの5区画にあり、その区画内を端から端まで結んでいる。その両端よりやや手前に階段があり、突き当たりにトイレが用意されているのである。
 トイレはいずれも同じ構造で、入口にドアがあり、中は洗面所と、男女共同の個室が2、小便器が4。数としては少ないが、この市営球場が満員になることはほとんどないため、特に苦情が出ることもない。

「も、もうだめぇ……、もっちゃうよぉ……!!」
「ほら、あとちょっとだからがんばって!!」

 そのトイレの一つ、一塁側本塁寄りのトイレに近づいてくる慌しい足音と、余裕のない声があった。

  プスゥッ! ブプ、ププププププッ!!
「あ、あ、だめ、だめだめっ!! でちゃうよっ!!」
「あー、もう、おしり押さえて!! あたしが開けておくから!!」
 おしりを押さえたままトイレに向かって走る美奈穂。我慢しながら走る以上全速力ではないはずだが、美奈穂はもともとが身軽である。先にたどり着いてドアを開けるためには、幸華はほぼ全力に近い速さで走る必要があった。

「はぁ、はぁ……」
  ガチャ、ギィ……
 なんとか幸華がその目的を果たし、倒れ込むようにドアを押し開ける。
「もっちゃうーーーー!!」
 間髪を入れず、可愛らしい悲鳴を上げながら全速力で飛び込んでくる美奈穂。その視線には、開いたドアの先、さらに開いていた個室のドアの中にある白い便器しか映っていなかった。

「ふぅ……」
(なんとかなったみたいね……)
 開け放したドアにもたれかかるようにして、目を閉じて息を整えていた幸華。美奈穂の悲鳴の音程がわずかに低くなるのを感じるて目を開けた彼女は、次の瞬間には目を見開いていた。
(あっ……!!)
 コンクリートの通路と異なり、トイレの床はタイル張り。しかも掃除の直後なのか、床一面に水が撒かれていた。こんな状態の足場に全力疾走で飛び込んだら……。
「みな、危ない!!」

  つるっ……

「え……」
 幸華が叫んだのは、美奈穂がトイレに踏み込んだ右足を滑らせた後だった。

「あ……」
 まだ空中にあった左足が前方に跳ね上げられ、その反動のように小さな体が沈む。

  ぺちゃっ!!

 美奈穂がしりもちをついた音である。彼女の軽い体では大きな音は立たなかったが、タイルの上に撒かれていた水が冷たげな音を立てた。

「みな、だいじょうぶ……?」
 一、二歩駆け寄って声をかける幸華。だが美奈穂はそれに答えず、びくりと体を震わせた。

「んぅ……ぅーーーーっ!!」
  ムリュ…………ニュリュブチュグチュグチュブリュビチュッ!!

 しりもちをついて後ろに倒れかけた体を支えるため、美奈穂は両手をおしりから離してしまった。その結果、すでにおしりの穴での締め付けでは押さえきれなくなっていたうんちが、腹圧そのままの勢いで飛び出してきたのである。
 美奈穂が最後に排便したのが前日であったため、肛門付近に来ていたのは形を保った大便である。それがおしりの穴のすぐ下でタイルの反発力に押され、前の方へ曲げられていく。が、さほど伸びる前に便は形を失い始めた。乳糖分による催下効果が、水分を保った腸の中身を全て押し流そうとしているのである。

「んっ……うんっ、んーっ……」
  ブチュビチュブチュルルルルビュルグジュグジュッ!!
「あぁぁ、みな、ダメだってば……!!」
 一度おしりの穴が開いてしまうと、反射的におなかに力が入り、出始めたうんちが止まらなくなってしまう。今の美奈穂はまさにその状態だった。

「ほ、ほら、もう少しなんだから、がまんして!!」
「うぅ……だめ……もう歩けないよぉ…………」
  ブビブビブビゴポッ!! ギュプププププッ!!
 おしりから断続的に音が響く。スカートが広がっているから外には見えないが、すでにパンツの外側にも水分が染み出している。パンツからあふれた水が床に広がり始めるのも時間の問題だった。

「みな、立って! ちゃんと中で脱いでしよう、ね?」
「……う、うん…………でも…………」
  ブチュチュ…………ビュル……ブピブピ……
 おしりからの噴出が止まらない。恥ずかしい音を奏でるその穴に感覚神経を全て奪われてしまって、立つ、歩くといった行動のための手足を動かせないのだ。

「ほら、こっち!!」
  ぐっ……
「あ……」
  ブプブピブピブピッ!! ビチチチブジュッ!!
  ポタタタタタポタポタピチャッ!!
 幸華に手を取られて体を起こした美奈穂。そのおしりからさらに大きな音が響き、一瞬置いて足元で茶色の滴が跳ね上がった。おもらしした下痢便がパンツからあふれ出したのである。
 美奈穂のはいているパンツは、彼女の外見にふさわしい、厚手で布地の多いコットンパンツである。少量のおもらしならパンツの中に閉じ込めておけるし、水気の多い便でも吸収してくれるはずだった。それが足元にこぼれるほどあふれ出すということは、パンツの中はすでに液状の下痢便で一杯になっているということだ。

「みな、がんばって、もうちょっと!!」
「うぅぅ……んっ…………」
  ブピュブピュッ!!
  ゴポゴポゴポポポポッ!!
  ビィッブビビビビッ!!
 一歩歩くごとにおしりの穴が開き、尽きることなく下痢便がパンツにあふれ出し、パンツの中にあった下痢便を床にこぼしていく。おしりの周りの便がほぼ完全に液状になったため、もらし始めのころのべたつく感覚はないが、熱い流れが常におしりを冒し続ける感覚は決して快いものではない。おしりだけではなく、パンツの脇からこぼれた液状便が足を伝っていた。

  パタ、パタッ……。
「っく……うぅぅ…………」
「みな、着いたよ、もう、しても大丈夫だから……」
「ふぅぅぅうううっ!!!」
  ブリブビビビビビビビゴボボボボボボボボボボボッ!!

「あ……」
 幸華が手を離した瞬間、美奈穂のおしりから今まで以上の轟音が響いた。幸華をして、まだこんなに出るのかと驚かせるほどの大きな排泄音だった。

  ポタ、ポタポタポタタタッ!!
 パンツの表面に浮かんでいた水滴が落ち、続いてパンツの脇から途切れない水流が2本流れ出す。
「――――っ……!!」
 声にならない声を上げ、美奈穂はその場に……便器の上に倒れるようにしゃがみこんだ。
 ……パンツをはいたままで。

「ちょっと、みな……」
「ふぅううううーーーーっ!!!」
  ブビブビブビゴボボボボボブジュブジュブジュゥゥゥッ!!
  ビチチチチブピブピィーーーーーーーージュブブブブブブブブブッ!!
  ビーーーーーーーーーーゴボゴボゴボブビブビブビゴポポポポポポポッ!!

 美奈穂はおなかを両手で押さえたまま息み……直腸にあった下痢便をひたすら、パンツの中へと吐き出した。
 パンツを下ろす、あるいはずらすだけの数秒の時間すらままならないほど、美奈穂のおなかは下ってしまっていたのだ。

「………………」
 幸華は、パンツを脱いでしよう、という言葉を口の中で飲み込んだ。おなかを押さえて苦しむ美奈穂の姿を見ると、今はただ楽になるまで待つしかないと、そうとしか思えなかったのだ。

「んっ…………うぅぅ…………」
  ブビュビュルルルルルブビビビビビブビブビッ!!
  ブジュブジュブジュブジュジュジュジュジュビチビチビチビチビチッ!!
  ゴボボボゴボゴボゴボゴボボボボボブボボボブジュブリュビュルルルルルーーーーッ!!

 パンツの中はもう洪水だった。後から後から出てくる水便に流されて、最初の頃に出た軟便のかけらが便器の中に落ちる。おしりの下で熱湯が渦巻く感覚に苦しみながら、美奈穂はさらに新たな水をパンツの中に流し込んでいく。

「うぅぅうぅ…………んーーーっ…………」
  ビーーーーーーーーーーーーーーーブビブビブビブビーーーーーーーーッ!!
  ブリュリュリュリュリュビシャァァァァーーーーーーーーーーッ!!

 下半分が茶色に染まったパンツ。その内側で、完全な液体の中にどろどろの固形物が浮かんで、黒い影が揺れる。前はつるつるの割れ目を浸しただけで少しずつ染みが広がって行くだけだが、背中側は時折パンツの中の水かさがぐっと高まる。おしりの穴からまだ新しい液体便が飛び出している証拠だ。それも、パンツで受け止められた反発の力だけで水かさを数センチ押し上げるほどの運動エネルギーを持った噴出である。

「ふぅぅっ!! あぅぅぅ……んうーーーっ!!」
  ビチビチビィーーーーーーーーブビビビビビブジューーーーーーーーーーーッ!!
  ブピッブピッブビィーーーーーーーーーーゴボゴボゴボゴボゴボゴボゴボゴボゴボッ!!
 高さという位置エネルギーはパンツの底に溜まった液便を流し出す圧力になり、便器の中に茶色の雨を降らせた。エネルギーとして安定になるかわりに、便器の中を飛び散った茶色の滴で汚していく。秩序から無秩序へ、エントロピーの増大である。
 おもらしはエントロピー増大の最適な具体例かもしれない。腸内に便を押しとどめている状態なら芸術品とも思える美しさを備えた女の子のおしりが、肛門の平衡状態が破れるとともに無秩序な音とにおいと汚物に塗りつぶされていくのだ。
 さらに本質的なことに、この状態変化は熱力学第二法則を満たしている。一度増大したエントロピーは減少しない――すなわち、一度してしまったおもらしは取り返しがつかないのである。

  ゴロゴロゴロキュルーーーーーーッ……!!
「んぅぅぅ……おなかいたいよぉ……」
  ブピブピブピブピュルルルルビューーーーーーーーーーッ!!
 おなかの中と外から、絶え間なく音が響く。これだけ出したにもかかわらず、美奈穂はまだ腸の奥から沸き上がる痛覚と便意に苦しんでいた。摂取した乳糖を排出すべく、おなかの中身を全て吐き出そうとしているのだ。熱い液体が通過する腸が激しく収縮し、おなかの奥に鋭い痛みを生み出しているのだった。

「うぅ…………んっ、んんっ!! んーーーーーーっ!!」
  ブリュビチャブジュビビビビビビビビビーーーーーーーーーッ!!
  ブピブピブピブボブチューーーーーーーッ!! ブピピピピピピピッ!!
  ゴポゴポゴポビジャーーーーーーーーーーーーーッ!! ブビビブビブビブビーーーーーーッ!!



「はぁ、はぁ、はぁ…………」
  ポタ、ポタ、ポタポタッ…………。
 美奈穂の小さなおしりの下、下向きに弧を描いたパンツのふくらみの頂点から、茶色い滴が垂れ落ちる。ついに、美奈穂のおなかの中の消化物と未消化物が、全て体の外……パンツの中に吐き出されたのである。

「うぅ…………」
 だが、美奈穂の受難はこれで終わったわけではない。便意の促すままにおしりの穴を開けていればよかったおもらし排泄中と異なり、汚物を全て受け止めたパンツを脱ぎ、汚れた肌を拭かなければいかないのだ。

「さ……さっちゃん……?」
 幸華の名前を呼ぶ。おなかが楽になるにつれて思考能力が戻ってきたため、一人で後始末をするのが限りなく困難な状況にあることがわかってきたのである。しかし、美奈穂にとっては気が遠くなるほど長い間、水状の便を垂れ流していたのである。幸華がずっとついていてくれる保証はなかった。

「いない…………あっ!?」
 返事がなかったことに落胆しながら、後ろを向いてその事実を確認する……だが、それ以上に衝撃的な事実が美奈穂の目に飛び込んできた。個室のドアが開けっ放しだったのである。誰かが入ってきた様子はなかったが、それは排泄に夢中だった美奈穂の主観での話である。パンツの中に大量の液状便を排泄し続ける姿を誰かに見られた可能性が、ゼロとはとても言えないのだった。

「うぅ…………」
 美奈穂はそっと立ち上がり、手遅れなことがわかっているドアを閉めた。だが、ここからが難題である。一人で、この後始末をしなければいけない。

「…………」
 まず靴と靴下を脱ぐ。パンツがふとももを取り囲むように茶色く汚れており、脱ぐ時にどうしても縁が付いてしまうから、こうしておくしかない。もっとも、靴はともかく靴下は飛び散った便液で茶色い水玉模様になっていたが。

「えっと……」
 次に美奈穂が手をかけたのはスカートだった。ホックを外し、汚れの少ない床の上に移動し、ぱさっと床の上にスカートを落とす。まだポタポタと垂れ落ちている液体がかからないように、素早く脚を抜き取る。汚さないように、便器の奥にたたんで置いた。

「…………うぅ…………」
 そしてパンツである。…………いや、もはやパンツと呼ぶことは難しい。腰のゴムに届こうという高さまで扇形上に広がった茶色い汚れが、はっきりくっきりと浮かんでいた。もはやこれ自体が一つの汚物である。

「…………」
 便器をまたいでその汚物に手をかける。腰の両側、まだかろうじて汚れていない部分であるが、それでも慎重につまむように、美奈穂は少しずつ下向きに力を加えた。

  ズズ…………
  ジャーーーーーーー……ビチャビチャビチャビチャッ!!
「あ、あっ……」
 肌に密着していた汚物カバーの下端が離れると同時に、中に溜まっていた液状便が流れ落ちた。一部は脚の内側を伝ってタイルに達し、一部は真下の便器の中の茶色い海と一体化した。

「うぅ……」
 脚の内側に残る、冷たくなった液状物の感触。その不快感に耐えながら、美奈穂はパンツを少しずつずり下ろしていった。パンツに残る粘性の高い下痢便が、液体の流れた跡をさらに無秩序に汚していく。ふともも、ひざの裏、ふくらはぎ……立ったままおもらしをしたかのように、下半身が次々と茶色に汚れていった。

「んっ」
 両足をパンツから抜き取る。パンツは便器の縁を一部占領して、重々しい存在感のある色を見せ付けていた。

 セーラー服の上だけをまとい、下半身は丸裸。だが、股の間から脚にかけてべっとりと貼り付いた下痢便が、彼女に起こった悲劇を証明していた。


「……………………」
 その後、個室には紙が巻き取られる音、紙が肌をこする音が終わりのない演奏のように続いた。おしりを拭くだけで紙を10回以上は巻き取っただろう。拭いても拭いても消えない汚れ、無限に続くかのような繰り返し。
 その繰り返しが終わったのは、拭き終わってスカートをはき直す衣ずれの音ではなかった。

「んっ!!」
  プリリプピュルピュルーーーーーーーーーーーッ!!

 腸の中に残っていた液状便が、まだ止まらないおなかの動きで押し出されたのである。そしてその瞬間、美奈穂は肌を一通り拭き終えて、一番汚れのひどかったおしりの穴を力を込めて拭っていたのである。

 腹圧と指先の圧力が正面衝突し、液状便が四散した。
 便器の中へ。床の上へ。拭いていた紙の繊維の中へ。美奈穂の指先へ。一度綺麗にした両脚へ。


「うぅ…………」
 それまでと同じ時間をかけて、美奈穂は紙音を奏で続けた。トイレットペーパーが交換されたばかりで、一巻き丸ごと残っていたのは美奈穂にとって幸運だったといえる。

 コンコン。
「え……?」
 茶色く染まった紙で便器を埋め尽くした後、立ち上がった美奈穂の後ろでノック音が響いた。

「みな、下着の替え持ってきたよ。ちょっと開けて」
「え……う、うん」

 美奈穂は、個室の中の惨状を見られるのがやはり恥ずかしかったのか、少しだけ扉を開けて幸華の差し出した真っ白な布地を受け取った。
「これ……?」
「後でひかりにお礼言っとくのよ」

 幸華は、美奈穂の排泄が長引いている間に客席に戻り、ひかりがいつも持ち歩いている替えのパンツを借りてきたのである。ひかりにとって、これを身に付けるということはおなかの調子が悪いということだから、それ以上冷やしたりしないように厚手の生地のものになっている。

「う、うん……ありがと。すぐ出るね!!」
 そういって美奈穂は扉を閉めた。後は服を着るだけである。今は汚れ一つないつるつるの下半身を、まず借り物のパンツで、次にスカートで覆う。靴下は汚れがひどかったので捨てて、裸足を靴の中に押し込んだ。

 ジャーーーーージャーーーーーージャアーーーーーーーーーー……
「えいっ、えいっ」
 ここで起こったことを水に流したいとの思いから、レバーを何度も倒す。しかし汚物の渦巻く様を直視することはできず、美奈穂は便器の中を振り返らずに個室を飛び出した。

「ごめんね、おまたせ!」
 幸華にそう微笑んだ顔は、いつもの美奈穂の無邪気なものだった。



「お待たせ〜」
 元気に戻ってきた美奈穂は、スカートをふわっと浮かせながらぺたんと椅子に腰を下ろした。
「あ……お帰りなさい。その、美奈穂ちゃん……もう大丈夫?」
「うんっ、もう平気だよ。あ……ひかりちゃん、パンツありがとう」
「え…………あ、う、うん……」
 示されたのが感謝とはいえ、その内容と直接さに顔を赤くするひかり。
 おもらしで下着を再起不能にしてしまった美奈穂が今はいているパンツは、ひかりが予備に持ち歩いているものだった。できるだけ早く着替えを用意する必要があったため、確実に下着の替えを持ち歩いているひかりに頼んだのである。
「…………」
 もっとも、その横に座っている純子も、常に予備のショーツを持ち歩いている。それも複数枚である。ただ、幸華は純子の下着損耗率がひかりを上回ることを知らなかったし、知っていたとしても純子の持ち歩いている物では美奈穂にサイズが合わないだろうから、結果として幸華の判断は完璧だったのだが。


「……で、ひかり、試合は?」
 幸華はまずフェンスの向こうを見下ろしたが、グラウンドの水撒きと土ならしの整備中で、プレーは行われていなかった。そのため視線を横に転じたのである。
「うん、えっと……1点、入ったよ」
 小さな声ながらも明るい表情で答えるひかり。その表情を見れば、どちらに点が入ったのかは聞くまでもない。
「下位打線でチャンスを作って、藤倉君がスクイズを決めたのよ。勉強ができるのは知っていたけど、野球でもがんばっていたのね」
「藤倉さん、って2年のトップの人ですよね? へぇ……でもひかり、スクイズってなに?」
「え、えっと…………要するに、バントなんだけど……」
「なんだ、打ったわけじゃないの。……でも、これで勝てるのよね?」
「ま、まだ1点差だから……あと4回もあるし……」

「4回じゃない、打者12人と呼ぶべきだろうな」
「あ……弓塚センパイ」
「ひかりちゃん、リードしたからといって油断しないのは大切さ。しかしだな、今日の早坂の出来を見るに、失点するかどうかより、ヒットが出るかどうかが問題だと思うがね」
「…………はい…………」
 嬉しさをかみ締めた口元で、ひかりが答える。

「どうして問題なの?」
「もんだいなの?」
 幸華と美奈穂が疑問符を空中に浮かべる。
「説明しよう。完全試合パーフェクト・ゲームとは、塁上に一人のランナーも出さずに9回を投げ抜いて勝利することで、ピッチャーにとって、一試合で作れる最高の記録とされているのさ」
「名前ぐらいは聞いたことあるような……でも、そんなにすごいんですか? 1試合だけでできるなら、結構やった人がいるんじゃ……」
 幸華が自問する。
「いや……そう簡単じゃない。一人もランナーを出さないってことは、ヒットはもちろん、フォアボールやデッドボールも与えちゃいけないってことだ。ヒットを打たれない球威と、精密なコントロールを兼ね備えた投手でないと達成できない記録ということだ」
「へぇ……」
「さらに言えば、守備陣もエラー一つしてはいけない。要するに、一つのミスも許されない、文字通り完璧な試合ということさ」
「それは難しいかも……」
「ああ。だが、今日の早坂は、球威も抜群でコントロールにも狂いがない。つまり、完全試合の必要条件は満たしているってことさ。あとは、守備陣の実力と……記録がかかった重圧に耐え切れるかどうか、だな」
「…………」
 その言葉を聞いて、ひかりの表情が少し固くなった。

 6回表の攻撃。
「やったぁ!!」
 4番早坂のフェンス直撃2塁打。
「よし!!」
 5番芝田の8球目、ゴロを二塁手が三塁へ送球。滑り込んだ隆の足が一歩早くセーフ。
「よーーし!!」
 6番古西の7球目、浅めのセンターフライで隆がタッチアップ。2-0。

「あれ、弓塚センパイ? 何か気になることでもあるんですか?」
 怪訝そうな顔で見上げた幸華に、江介は答えた。
「……早坂を疲れさせる作戦だな、こりゃ」
「えっ……?」
 冷たさが失われたジュースに口をつけていたひかりが、心配そうに顔を上げる。
「この炎天下だ。塁に出て走れば体力を消耗する。……まあ、そうでもしなきゃ打てないってことだろうけどな」
「でも、わざと塁に出したりしていいんですか?」
「勝つためならな」
「むー……」
 幸華の唇が歪む。
「まあ、マウンドに上がるまでに休めればいいんだが……」

『ダブルプレー、チェンジ!!』
「あっ」
 一斉に顔を向けたグラウンドでは、ピッチャー二葉が注文どおりの併殺を奪っていた。
 ベースを一周して帰ってきた隆は、まだヘルメットを脱いでもいなかった。

「……ちっ、球威はないがコントロールと変化球は一流だな、あのピッチャー」
 江介が毒づいたのが聞こえたかのように、二葉は不敵な笑みを浮かべた。


 得点を与えてでも隆を疲弊させる焦土作戦に出た二中、6回裏の攻撃。
『ストライク、バッターアウト!!』
『ストライク、バッターアウト!!』
「…………」
「……連続三振……」
 隆は息を荒げながらも、二人の打者を連続三振に斬って取った。
 次は9番ピッチャー二葉である。
「そ、そう簡単に打ち取られてたま……」
  ガキッ……!!
『アウト!!』
 キャッチャーフライ。

「……くそおっ!!」
 金属バットを地面に叩きつける。
「いったい……いったい何なんだあいつは!!」
 憎しみにも近い視線の向こう。
 隆はスタンドに視線を上らせながら、ベンチへと駆けた。

(ひかり……もうすぐだ)
(お兄ちゃん…………)

 隆の気迫がプレッシャーとなったのか、試合から動きが消えた。
 7回表、桜ヶ丘中の攻撃は三者凡退。
 7回裏、二中の攻撃も三者凡退。
 セーフティバント失敗のキャッチャーゴロ、当てただけのサードファールフライ、振り遅れの空振三振。
 完全試合まであと6人である。


 だが、次の動きはグラウンドの中でなく、スタンドで起こっていた。

「っ…………」
 軽く結んでいたひかりのこぶしが、ぴくりと強張った。
 …………。
 おなかの奥で何かが震えたような感覚。

「ひかり? おなか痛いの?」
「ひかりちゃん?」
 わずかに漏らした声に反応する幸華と美奈穂。
「う、ううん、だいじょうぶ……」
 ひかりはそうつぶやいて、スカートを軽く握った。

 おなかが痛いのを隠そうとしたわけではない。
 おなかをさすったりしたら、本格的な腹痛が襲ってきそうな、そんな感覚だった。
 美奈穂のミルクのように即効性はなかったが、ジュースの水分が腸に刺激を与えたのだろう。ひかりのおなかを下らせるには十分すぎる刺激だ。
 だが、即座に強烈な便意が現れないということは、それほど調子が悪いわけではないらしい。……もっとも、調子のいい時など年に一日あるかないかなのだが。
 ひかりはおなかを刺激しないように、なおかつおなかから注意を離さないように、少しずつ顔を上げた。


「よしっ!!」
 学の放った打球が一・二塁間を抜いた。鋭くはないが両者の真ん中をしぶとく破ったヒットである。
 これで4打席2犠打1四球1安打。スクイズの1打点もある。無駄なアウトが一つもないという理想的な二番打者の姿が、そこにあった。
「続け、木下!!」
「おう!!」
 3番木下も安打で続く。こちらは三遊間だ。
 無死一・二塁で4番早坂。桜ヶ丘は絶好のチャンスを迎えた。

「頼むぜ早坂!!」
「早坂くん!!」
「いっけー、隆さん!!」
「いけー、隆おにーちゃん!!」
 スタンドから声が乱れ飛ぶ。
「お兄ちゃ……」
 ひかりがその音の波に自らの声を加えようとしたその瞬間だった。

  ゴロギュルグギュルルルルッ!!

「――っあ……!!」
 息を詰まらせたまま体を震わせる。
 …………。
(……おなかが……痛いっ…………)
 ついに、激しい腹痛がひかりを苦しめだした。
 まだ切迫した便意ではないが、おしりの圧迫感が確実に増し始めている。
 下痢との戦いが、静かな唸りとともに始まったのである。

「ひかり、やっぱりおなか痛いんじゃ……」
「う、ううん……だ、だいじょうぶ……だから……」
 青ざめた顔色。それでもひかりは、弱音を吐かなかった。
「そ、そう……? おなか痛くなったら、遠慮とかしなくていいからね」
「うん…………ありがとう…………」

『4番、ピッチャー、早坂君……』

  ギュルゴロゴログリュルルルルルルグピーーーーーーッ!!
「うぅっ……!!」
 腸を裂くような痛みが走る。ひかりはたまらず、おなかを抱えて前かがみの体勢を取った。
  ギュル…………。
「……っふぅ…………」
 痛みは一瞬で消え、きつく閉じた目を開けた。にじんでいた視界が、わずかな間をおいて晴れていく。
「…………あ……」
 打席に入る前に、スタンドを見つめていた隆と目が合った。
 いや、ひかりが目を開ける前から、隆はひかりを見ていたのだ。
 腹痛にうずくまるひかりの姿を。

(お、お兄ちゃん……どうしよう……)
 心配をかけてしまったかもしれない。自分のせいで、隆の集中が途切れてしまったら。試合を邪魔することになってしまったら。
 考え続けても答えは浮かばず、ひかりはスカートを強く握り締めた。
 おなかの痛みがすぐに襲ってこなかったことだけが幸いだった。


 マウンドを挟んで対峙する二人の投手。
「くそっ、今度こそ抑えてやるぜ……」
 二葉が投球モーションを起こす。
「…………」
(ひかり…………いつからあんな苦しそうに……)
 隆は空中を見つめたまま動かない。
「オレが本気になればこんな奴……」
 後ろに伸びた腕が振り下ろされる。
「…………」
(下痢してるのに……我慢して…………)
 隆は空中を見つめたまま動かない。
「勝負だ、早坂!!」
 ボールが指先を離れる。
「…………」
 隆は空中を見つめたまま。
 直球、内角高目……。

「…………ひかり……!!」
 下痢で苦しむひかりの姿を、頭の中に浮かべたまま。
 隆がバットを振りぬいた。

 打球は。
 ライトスタンドへ。
 一直線。


「あ…………」
 ひかりは、白球の軌道を追って、思わず腰を浮かせていた。
 放物線が描かれる間は、まるで時間が止まったかのよう。
 ボールがスタンドで弾んだ時になって、やっとおなかの痛みを思い出して下腹部をさすった。

 一瞬遅れて、客席で喜びの輪が弾けた。
「ホームラン!!」
「ほーむらん!!」
「早坂くん……!!」
「……試合は決まったな。後は記録だけか」
「…………」
 その輪から取り残されたかのように、言葉を発しないひかり。
「…………ひかりちゃん……?」
 やや早く落ち着きを取り戻した純子が、ひかりの異変に気づいた。
 閉じられた片方のまぶた、痛みをこらえるためにかみ締められた口元、両手でいたわるように抱え込んだおなか……。
「ひかりちゃん、おなか……」
「あ…………だ……だいじょうぶです……」
「でも……」
「そ、その……痛い……ですけど…………だいじょうぶ……ですから……」
「本当にだいじょうぶなの? その……お手洗いは……?」
 トイレの話とあって、江介に聞こえないように問いかける純子。
「ま、まだ平気です……試合が終わるまで我慢できますから……」
 ひかりも小声で答えた。
「でも……」
「だいじょうぶです」
 ひかりにしては珍しく、強い語調で宣言する。
「…………」
 そして次の瞬間に浮かべた微笑み。

 純子がその視線の先を追うと、本塁に戻ってきた隆の真剣な顔があった。


 隆のスリーランホームランの後は三者凡退。
 5-0。もはや球場内外の誰もが、試合の勝敗ではなく、完全試合がなるかどうかを考え始めていた。

 その隆が8回裏のマウンドに上がる。
 客席には、グラウンドを見つめ続けるひかりの姿。
 おなかをぐるぐるとさすり、おしりの穴をきゅっと締め付けながら、その視線は動かさない。
「…………うぅ…………」
 トイレに行きたい。便器の上にしゃがみこみ、おしりの穴を全開にして、おなかの奥の煮えたぎる液体を排出したい。
 その欲求を、ひかりは精一杯の理性で抑え込んでいた。
 いや、理性という表現は適切ではないかもしれない。授業中のように、トイレに立つのに許可が要るわけでもない。登下校中のように、トイレまでの距離が遠いわけでもない。行こうと思えば1分以内に個室までたどり着けるのだ。
 それでもひかりは我慢を続ける。その直接的な理由は、試合に出ている隆の姿を少しでも見逃したくないから、である。だが、それだけなら隆がホームランを打った後に急いでトイレに行っておくなど、方法はあるはずだった。それをあえてしない。

 ひかりの意識にあるのはただ一つ、「試合終了まで我慢すること」だった。


 小学2年生の夏。母に連れられて、隆の試合を見に行ったあの日。
 低学年の頃のひかりは、おなかの弱さに加えて、我慢するための体力・精神力が十分でなかったこともあり、毎日のように下痢便をおもらししていた。距離が遠かった登下校の時が一番多く、草むらに駆け込んでパンツを下ろせればまだいい方で、強烈な腹痛と便意のために身動きができなくなり、道端にしゃがみ込んでびちびちとおもらしをしてしまうのが日常茶飯事であった。校内でも授業中のおもらしは珍しくなく、授業終了まで我慢しても、トイレに駆け込む前にパンツの中をぐちゃぐちゃにしてしまうことも多かった。
 そんな時はいつも2学年上の隆が呼ばれ、後始末を手伝ってもらうことになる。もちろん、いい顔をされたことはない。だが、下半身を汚して泣きじゃくるひかりの小さな姿を前に、隆は苦々しい表情をしながらも、自らの手で汚れを拭ってくれた。そのたびにひかりは、うれしさとつらさを同時に感じていた。本当は優しい兄に迷惑をかけてばかりいることが情けなかった。
 夏休み中は兄に迷惑をかけることが減り、ひかりにとっては心休まる時期であった。もっとも、おもらしがなくなったわけではなく、家の中でさえ急にもよおして間に合わないことも多く、後始末を手伝ってもらうのが兄から母になったという変化ではあるが。それだけに、母に連れられて隆の試合を見に行くこの日は、絶対におもらしをしないようにと心に誓っていたのである。
 幼き日のひかりは、その誓いを守ることができなかった。試合の序盤でもよおした時は母に訴えてトイレに駆け込むことができたが、試合の終盤で再び激しい下痢に襲われてしまった。最終回は隆のピッチングもさることながら、逆転をかけた隆の打席が残っている。ひかり自身も見届けたかったし、何より自分のせいで母を煩わせてしまうのが嫌だった。そうして、無理に我慢を続けた末の、無残な下痢おもらしだった。隆の活躍を見届けられなかっただけでなく、隆と母との間に大きな溝を作ってしまった。ひかりにとって、悔やんでも悔やみきれない一日だった。
 二人が中学生となった今、母が最後に残した言葉のおかげで、隆があの日のことを責めることはない。だが、ひかりの心の中には、あの日の償いをしたいという気持ちがずっと残っていた。その初めての機会が、今日なのである。
 償い――それが意味するのは、単におもらしをしないというだけではない。あの日、ひかりのおもらしのせいで、隆の逆転打は一番見てもらいたい人に見てもらえなかった。だから。

(……お母さんの代わりに、わたしがお兄ちゃんの姿を見届ける……)

 この新たな誓いを胸に、ひかりは球場のスタンドに立っていた。だから、軽々しくスタンドを離れ、トイレでしゃがんでいるわけにはいかない。もちろん、おもらしをしてはあの日の二の舞であるから、本当に我慢できなそうなら仕方ないとは思っていた。
 腹痛を覚えたのが7回裏。初めての観戦のときに、おもらしに至る2度目の便意に襲われたのが5回裏。奇しくも、残りイニング数は同じ2回である。あれから5年。ひかりが便意を我慢できる時間は格段に長くなっている。便意をもよおしてから自発的な意思によらず排泄が始まるまでの時間の平均は、小学2年生の時で16分31秒、中学に入ってからで25分22秒である。なお、自発的な意思によらない排泄開始というのは、おもらしおよび個室に駆け込んだ後しゃがみ切る以前の排泄ということになるが、その条件でこれだけ正確な統計量が取れてしまう女の子はそうそういないだろう。
 あの時と同じ残りイニング数、あの時より約1.5倍に増した自らの我慢能力、そしていつもと同じ程度に下ったおなかの調子……それらを考慮した結果、ひかりが出した結論は「最後まで我慢する」だった。できる、という確証はない。少しでも油断すればおもらししてしまうという、ぎりぎりの条件である。それでもひかりは、その苦難の道を選んだ。かつて守れなかった誓いを、今ここで果たすために。


『8回裏、第二中学校の攻撃は、4番ファースト、高間君……』
 ウグイス嬢の声が響く。おそらく二中でも演劇部の生徒が務めているのだろう。
「っ…………」
  ゴロギュルルルルルゴロロロッ……!!
 綺麗にそろったひかりの前髪の下に、いくつもの脂汗が浮かぶ。
 だが、おなかの痛みに耐えながらも、その視線はマウンドから逸らさない。

『ストライク!! バッターアウト!!』
「…………」
 三球三振。4番打者のバットが、3度とも直球を捉えられなかった。その球威は、明らかに初回よりも増している。
 二中の側のスタンドやベンチからもどよめきが起きた。桜ヶ丘のスタンドからは歓声。ただ、ひかりだけは口を開かず、苦しげな表情にわずかな笑みを浮かべた。

『5番サード、山笠君……』
「うんっ…………!!」
  グルルルルルギュルゥゥゥッ!!
 腸内を刺し貫くような腹痛に、おなかを抱え込むひかり。
 しかし、それでも顔は前を向き、グラウンドの中をしっかりと見つめていた。

『ストライク!! バッターアウト!!』
 再び三球三振。今度は見逃し三振である。
 じっくり見ていけ、との指示があったのだろう。初球、2球目を見送ったが、遊び球は一つもなかった。そして3球目は内角高めに手が出なかった。

『6番ショート、岡君……』
「……っくっ!!」
  ゴロロロギュルグピィィィィッ!!
 おしりの穴が膨らむ感覚を覚え、ひかりは慌てて右手をおしりの下に差し入れた。
 か弱い指先の力と荒れ狂う腸の中の圧力。力の差は圧倒的だが、もらしたくないという意志の力が指先と括約筋に力を与え、不可能な我慢を可能にさせる。さすがに目を閉じずにはいられなかったが、便意のピークは数秒で去り、最悪の事態を避けることができた。

『ストライク!!』
 そうしている間にも試合は進む。8回の開始から、隆の投球にボール球は一つもなかった。
(もしかして……)
 便意をこらえきり、少し楽になった意識でひかりは考える。
(お兄ちゃん……早く試合を終わらせようとしてるんじゃ……)
 捕手の藤倉学のリードは、本来相手に的を絞らせない頭脳的なものである。7回までの投球がそれを物語っている。だが、この回は全て直球ストライク。
(わたしが……がまんしてるの、気付いたから……?)
 それ以外に考えられる原因がなかった。
 予断を許さないおなかの具合を思うと、ありがたいことではある。だが、自分のことで、兄に野球の中身まで変えてほしくはなかった。まして、今は完全試合がかかっている。こんな焦った投球のせいで、大記録を逃してしまったら……たとえおもらしを免れたとしても、ひかりの心には再び大きな傷が残るだろう。
(とにかく……とにかく、打たれないで……)
 ひかりが唯一心から願えるのは、それだけだった。

『バッターアウト、チェンジ!!』
「あ……」
 3人目の打者も三球三振。これで24人の打者を打ち取ったことになる。
 残すは最終回の攻防のみ。

  ギュル、ギュルルルルル、グギュルッ!!
「っく…………」
 断続的な緊張と緩和を繰り返しながら、再び便意が高まっていく。
 ひかりに残された時間も、決して多くはない。

「ね、ひかり、今のうちにトイレ行ってきたら?」
 ひかりの汗まみれの青白い顔に向けて、幸華が声をかける。
「…………」
 ひかりは前を向いておなかを押さえたまま、ただ小さく首を振った。幸華の方に向き直る余裕がない。
 今のおなかの具合でトイレに駆け込んだら、それこそ試合終了まで出てこられないだろう。腸の奥から、とてつもない質量が圧力となって迫ってくるのがわかる。
「でも…………」
「…………だいじょうぶ…………」
 かすれた小さな声。そこに込められていたのは、絶対我慢するんだという意思。
「もう……しょうがないわね」
「ごめんなさい…………」
 責められているわけではないが、つい謝りの言葉が口をついてしまう。心配をかけているのが申し訳なかった。
「いいのよ。……よーし」
「…………?」
 グラウンドに向かって息を吸い込んだ幸華に、ひかりは視線だけをそちらに向ける。

「これ以上点なんかいらないから、さっさと三振しちゃいなさーーい!!」
 何と口に出したのは、9回表の攻撃が早く終わってほしい、との味方への野次である。
「え…………ちょ、ちょっと、幸華ちゃ……っあ!!」
  ギュルギュルゴロゴロゴロゴロッ……
 ひかりは制止しようとしたが、おなかの痛みに息を詰まらせてしまい、上げかけた両手はおなかとおしりに逆戻りさせざるを得なかった。

  キンッ!!
「あっ!!」
「……っ!!」
 グラウンドから打球音。
『アウト!!』
 8番恵庭の初球打ちは鋭い当たりだったが投手の正面。ピッチャーライナーでアウトである。奇遇にも幸華が叫んだ三振より「良い」結果になってしまった。

『9番、ショート、朝比奈君』
「こら、ヒナ坊!! あんたもさっさと凡退しなさい!!」
「ヒナぼう?」
 美奈穂が頭の上に疑問符を浮かべる。
「うん、うちのクラスの朝比奈君。通称ヒナ坊。ほらヒナ坊、今度はキャッチャーフライよ!!」
 落ち着いた雰囲気の割に背が低いため、副学級委員長を務めている彼をからかうのにヒナ坊というあだ名がよく使われる。ちなみに命名は幸華自身である。
「ふむ、幸華君には意外な才能があったんだな。本日付でサチーカ少尉をヤジ将軍に任命しよう」
 わざとらしくうなずきながら、江介が軽口を叩く。
「へ? やめてください、そんなオヤジみたいな」

 キン……
「よーし!! いいぞヒナ坊!!」
 ヒナ坊の打球は力なく投手の前へ。ピッチャーゴロ、ツーアウト。
「…………本物だ……」
 口の中から音を出さないように、江介はそうつぶやいた。

 続く1番、成瀬。
「なるちゃん、がんばれー!!」
 美奈穂の声。黄色いというより檸檬色の声援である。美奈穂と成瀬は出席番号で並ぶと隣り合わせなので、入学式の時から比較的仲良くしている。
「ん……ぅ……」
  ギュルギュルギュル…………。
 ひかりのおなかは、絶える事のない痛みに襲われていた。本来ならクラスメートの成瀬を応援すべきなのだろうが、とてもできそうにない。

  ブンッ!!
『ストライク! バッターアウト!!』
「……終わった!!」
「うん!」
 幸華と美奈穂の嬉しそうな声。
「もう……そんなに喜ばないで。……大丈夫、ひかりちゃん?」
 純子の心配そうな視線に、幸華と美奈穂も同調する。
「っ…………」
  ゴロロロギュルルルグルルルルルグピィーーーーッ……
 ひかりはおしりをぎゅっと押さえ、逆流する下痢便が腸内で生み出す振動に身を震わせていた。

「……………………っ…………だいじょうぶ……です……」
 数十秒にも思える沈黙の後、ひかりはおなかをさすりながらそう答えた。
 その姿を前に、全員が言葉を失っていた。


 ガガッ、と放送のノイズが入る。
『9回の裏、第二中学校の攻撃は――』


 かつてプロ野球で前人未到の400勝を積み重ねた金田正一は、自らも一度達成した完全試合について、次のような言葉を残している。

『完全試合の9回裏ってのは、意外と楽なもんだよ』

 完全試合の9回裏。
 1本のヒット、1回のエラー、1球のデッドボールも許されない。
 記録の重さと困難さがもたらすプレッシャーは、並大抵のものではないはずである。
 その点だけに目を向けたら、さしもの金田と言えどこんな言葉は出せない。
 だが、彼の大投手たる所以は、常に相手より精神的な優位に立とうとしたことにある。
 彼は造作もなげに、こう続けたという。

『なぜなら、相手は必ず下位打線だからさ』


『――7番、キャッチャー、元田君』
「………………」
 弱冠14歳の早坂隆には、そのような発想の転換はとても不可能である。
 だが、マウンドに上った隆は、完全試合のプレッシャーを全く感じていなかった。

(ひかり……もう少しだ)

 隆の頭の中にあったのは、早く試合を終わらせて、ひかりをトイレに行かせてやることだけ。

(先輩……いいんですか?)
(ああ。3球勝負だ)
 学のサインにうなずく。
 前もって打ち合わせていた通り、遊び球なしの直球勝負。

「でやあーーーーっ!!」
 大きく振りかぶったモーションから、唸りを上げる速球が放たれる。


「…………はぁ、はぁ…………くぅ!!」
  ゴロギュルギュルグゥーーーーーーッ!!
 両手をおしりの下にあてがい、すでに自力では閉じなくなっているおしりの穴を無理やり押さえつける。直腸からS字結腸までを埋め尽くした灼熱の液状便が、小さなすぼまりに間断なき圧力をかけている。指先の感覚を失いつつも、ひかりは必死の我慢を続けていた。

  バンッ!!
「…………っ……」
 激しい腹痛のために半分以上閉じられたまぶたは涙でにじみ、ひかりの視覚は意味のある映像を伝えてこない。隆の速球がミットを叩く音が、唯一わかる試合経過である。
  バンッ!!
(2回目……)
  ゴロゴロゴロゴロ…………
「…………うぅぅ…………」
 便意が天井知らずに高まっていく。より強い指先の力で押さえる。
 排泄物が肛門を通り抜ける感覚が脊髄を駆け抜けるより早く、おしりの穴を押しつぶすように指先に力を込める。
 便意、我慢、便意、我慢、便意、我慢、我慢、がまん……。
  グキュゥゥゥ…………
「っぁぁ…………」
 まとまった量の下痢便が、腸の奥へと押し戻されていく。もちろん、その奥もすでに液状便で満たされている。しかし、液体と液体との対流が、ひかりにわずかな余裕を与えた。

  ……バンッ!!
「!!」
 届いた音に目を開ける。
 もっとも、何が起こったかは周りの歓声でわかった。
 25個目のアウトである。

  ギュル、ギュルギュルギュルグルルルルルグギューーーーーッ!!
「っぐ!!」
 再び襲ってきた猛烈な便意。震える指にもう一度、力と祈りを込め直す。
 余裕ができたのは一瞬だけで、ひかりはまた内なる敵との戦いに引き戻された。
(がまん…………がまんしなきゃ…………)
 自分のため、兄のため、母のため。
 その思いだけが、ひかりの心と体を支えていた。


  バシッ!!
「…………くそっ……」
 ネクストバッターズサークルから、二葉仁志は素振りの練習を眺めていた。
 彼自身は、9回表を押さえきるのに、ほとんどの体力を使い果たしている。球速も落ち、頼みのフォークも曲がらなくなって痛打されそうになった。
 なのに、どうして。
 目の前の早坂隆は、どうして最終回に近づくにつれて球が速くなるのか。
 もともとの能力が違うことは認めざるを得ない。だが、その他に何か絶対的な差があるように思えた。
  バンッ!!
「どうしたら……どうしたらあいつに勝てる……?」
 彼はそれだけを考えていた。勝つための努力、勝つための意思、勝つための……
  バンッ!!
 その思考は、3回目のミットの音で中断させられた。

「早坂ぁっ……!!」
 マウンド上をにらむようにして、バットを手に立ち上がった二葉。
 その瞬間だった。

『代打、矢薙』
 二中の監督が、選手交代を告げたのである。

 グラウンドに出てきた監督に、二葉はすぐに詰め寄った。
「どうして!? どうして俺じゃだめなんですか!!」
「おまえだから打てんというわけじゃない。誰でも同じようなもんだろう」
「じゃあ!!」
 詰め寄る。
「だが、今のおまえが早坂と戦ったところで、何も得るものはない」
「そんなのどうだっていいでしょう!? 俺はあいつに勝ちたい、だから……」
「だから、矢薙の打席を見ろと言っている!!」
 監督が初めて声を大きくした。
 そして、二葉の両眼を正視する。
「…………っ……」
 初めて聞く言葉と初めて見る表情に、二葉は立ちすくんだ。

「なんかもめてるみたい……こらー!! 早くしろー!!」
「はやくしろー!!」

 二中ベンチ前の騒ぎ続いている間、代打に指名された矢薙克弘は右のバッターボックス脇で素振りをしていた。ヘルメットに収まらないやや長い髪が目元と肩口を覆っている、長身痩躯の打者だ。捕手の学はマウンドに行き、隆と打ち合わせをしている。
「あの矢薙って打者……全くデータがありません。昨年の登録にもなかったので……」
「なら考えても無駄だろう。予定通り、直球勝負で行くぞ」
「……はい」


『プレーボール!!』
 二中側の混乱が収まり、試合が再開される。9回裏、ツーアウト。
「うっ…………く…………」
  ギュルゴロギュルルルルルルゴログピーーーーーーッ!!
 よけいな待ち時間が挟まれたせいで、ひかりは再び便意の波の頂点に襲われていた。

「いくぞ!!」
  バンッ!!
 1球目、外角低目ストレート。見逃しストライク。
(何だよ、さっきまでに比べたら威力ねえだろ。あれを狙い打てば……)
 二葉は歯ぎしりしていた。
「あ……う…………」
  ゴロゴロゴロゴロピーーーーーーーッ!!
(はやく、はやく、はやく、はやく……)
 ひかりの意識が排泄欲求によって覆い尽くされようとしている。

「次っ!!」
  ビシッ!!
 2球目、真ん中低目ストレート。空振りストライク。
「く…………」
  ギュルギュルギュルグゥゥゥ……!!
(だめ……でちゃだめ……!! お兄ちゃん…………!!)
 真っ白になりそうになる意識を、ひかりは必死につなぎとめた。

(コンパクトなスイング……とりあえず塁に出るつもりか。でも、これなら……)
 学はわずかな迷いと共に、ミットを左肩近くに構えた。

「これでっ!!」
 3球目、勝負球、内角高目へのクロスファイヤー。
「うっ……くぅぅ…………」
  グルルルルルゴログギュルーーーーーーッ!!
(これで……3球目で、終わり……)
 ひかりはただ、ミットの音が耳に届くのを待ち、耐え続ける。

「これだっ!!」
 矢薙のバットが唸りを上げる。1球前とは勢いも思い切りも全く異なる、フルスイング。
  キィン!!
「え…………」
 予想と異なる音に目を見開くひかり。
「しまった……?」
 マスクを跳ね上げて打球を追う学。
「な……?」
 一瞬遅れて振り返る隆。
「う……うそだろ……!?」
 二葉があんぐりと口を開ける。

 遠心力を一杯に効かせて振りぬいたバットは、ボールを対角線投法の軌道そのままに弾き返した。打球は一直線にライトスタンドを目指す。
 だが、徐々に打球は外側に切れて行く。ポールを巻くか、その外側か……。

(お、おねがい……入らないで……!!)
 ひかりは排泄欲求に押し流されそうな意識の中で、必死に祈った。だがそれ以上に、我慢の意思こそまだ潰えていないが、おなかの圧力が指先の圧力を超えつつあった。おしりの穴が今にも開きそうな感覚。
  ギュルグギュルルルルギュルルルーーーーーッ!!
「あ、あ、あっ……!!」
 おしりが開きそうな感覚が、おしりが開いていく感覚に変わり、おしりが開いた感覚に変わる……。
  ブピッ!!
「っ!!」
 一瞬、ほんの一瞬ではあるがおしりの穴が開いてしまった。飛び出したのはガスだけか、それとも……。

 …………。

(…………だ、だいじょうぶ……)
 指先の感覚に粘り気はない。液状便そのものは、おなかの中にまだ留まっているようだ。

『ファール!!』
「あ……」
 別のところでも投げられた賽の目がすでに出ていた。
 打球はポールのわずか右。
 多くの観衆がため息をついたが、ひかりには許されなかった。そんなことをしたら一瞬でおしりの穴が緩んでしまう。


(クロスファイヤーをあそこまで飛ばされた……?)
 右打者の懐に投げ込む、隆の決め球である。球速も時速140kmを越えていたはずだ。これを弾き返されたとなると、投げる球は…………。
「…………!!」

(お兄ちゃん、おねがい…………)
 見上げた隆の視界に映ったのは、両手でおしりを押さえながら、それでもグラウンドを見つめるひかりの姿。

(……そうか。そうだったな)
 隆が今マウンドに立っているのは、この相手を打ち取るためでも、完全試合を達成するためでもなかった。
 下痢をおして見続けてくれているひかりのため、そしてひかりを通して見守ってくれている母のため。
 隆の勝利を、その瞳に焼き付けてもらうため。

「でやあーーーーっ!!」
 力いっぱい跳ね上げた右足を振り下ろす。右足、左足、左腕、左手、指先、ボール……。
 伝えられた回転運動量が、ボールの直線運動エネルギーに変わる。

 ひとすじの光が、18.44mを駆け抜けた。

「…………」
「………………」
「……」
「………………」

『ストライク、バッター、アウト!! ……ゲームセット!!』

「…………」
 矢薙は笑いながら首をかしげ、空振りしたバットを置いた。

 完全試合成立と同時に、桜ヶ丘中学校の決勝進出が決定した。

 歓呼の輪が幾重にも広がる中、隆は真っ先にスタンドを見上げた。

「…………」
 無理に作った笑顔でぺこりとお辞儀をした小さな姿が、次の瞬間には制服の襟を翻して駆け出した。



「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!!」
 スタンドから地上に降りる階段。ひかりは両手でおしりを押さえたまま駆け抜けた。
 いまや、便意の波が頂点でなくても、おしりを全力で押さえての我慢が必要になるほど、おなかの中の圧力は高まっている。
 トイレの場所は確認してある。どんな場所に行っても、おなかの余裕があるときにトイレの位置を確認しておくのはひかりの習慣と言ってもよい。
 一歩踏み出すごとに、階段一段分の位置エネルギーが、足の裏からおしりの穴へと衝撃を伝える。内と外からの強烈な圧力に耐えながら、ひかりは歩みを進める。

(トイレっ……!!)
 ひかりの視界にその入口が映った。扉は開け放たれている。
  ギュルルルルルグルルルルゥーーーーーッ!!
「っぐぅ!!」
 あと一歩の場所まで来て高まった圧力。ここまで来て屈するわけにはいかない。
 両手をおしりに当てる。だが、それだけではもう押さえきれない。それでも開こうとするおしりの穴を押さえるには、自分の体以外の力を味方につけるしかない。すなわち、重力である。
「っ!!」
 おしりを押さえた手を間にはさみ、かかとの上にしゃがみ込む。軽いとはいえ全体重をかかとに預け、その反作用を肛門を押さえる力に利用するのである。

  グギュルギュルギュルギュルグゥゥゥゥゥゥッ!!
「……く……ぁ…………」
 衝撃が駆け抜ける。
 その圧力に耐える体の苦しみは並大抵ではない。
 大の大人でも、苦しみに耐えかねて我慢を放棄してしまうほどの苦しみである。

 その苦しみに、わずか12歳の少女が耐えた。

  ギュゥゥゥグゥゥゥーーーーッ……
「………………はぁっ、はぁ、はぁぁぁ…………」
 腸の置くで不気味な音が響き、ひかりにごく短時間の安息の時間が訪れた。

(トイレ…………)
 目指す場所は目の前にあった。

 しかし。

「…………え…………」
 ひかりは目の前の光景に絶句した。

 床面一杯に、茶色い汚水が広がっている。トイレの床からあふれ出す寸前の量である。
(ど、どうして……!?)
 個室は全て開いているが、その便器の一つに茶色く染まった紙だか布だかが埋まっている。
(こ、ここからあふれたの……?)
 それにしては汚水の濃度が濃い。よほど大量の下痢便でもないとこれほどの汚れにはなるまい。
(もしかして、美奈穂ちゃん……?)
 さっきここで下痢をしていた人物といえば、まず挙がるのが美奈穂である。しかし、自分の経験と照らし合わせても、これほどの量の汚水というのは信じがたいものがある。
(ど、どうしよう……これじゃしゃがめない……)
 便器にまたがって用を足そうものなら、靴の中に汚水が入り込むのは間違いない。しかもその汚水には間違いなく自分が出したものも加わるだろう。
(でも、待ってたらぜったいもらしちゃう……)
 詰まりを直す、もしくは係の人を呼んで直してもらう、というのが正当な手段である。だが、そうして入れるようになった時には、ひかりのパンツは下痢便の海だろう。
(これしか……ない……)
 ひかりは以上の情報から瞬時に結論を出し、身を翻した。


 通路の反対側のトイレへ。
(おねがい、もう少し、もう少しだけ…………)
 次に便意の頂点に達したら、もう我慢できる保証はない。それより早くたどり着くしかないのだ。
 30メートル。その距離が果てしなく遠い。

(おねがい、おねがい、おねがい……!!)
 悲痛な祈りを下腹部に込めながら、ひかりは小さな体を前に進める。
 あまりにも健気な努力。

 だが、その努力を嘲笑うかのように、ひかりのおなかが再び震えだした。

  ゴロギュルグルルルルルグピーーーーーーッ!!
「あ、あ、あああ……」
 もうだめかもしれない。そんな思いを振り払うように、ひかりは再び我慢の体勢をとる。

(おねがいっ……!!)
 括約筋の力、指先の力、重力の力。
 そして、ひかりの意思の力。

 それら全ての力を、おなかの圧力が上回った。


  ビチ、ビチビチビチッ!!

「…………!!」
 おしりの穴から、激しい破裂音が響いた。
 パンツの中に、ひかりのおしりの穴から、ぐちゃぐちゃの下痢便が吐き出された音だった。

 最大限の努力をしてなお、迎えてしまった限界。これに比べたら、ほとんどのおもらしは限界ではなく我慢の放棄である。早坂ひかりは、そんな真の意味での限界おもらしを、何十回何百回と重ねていた。
 そして、その記録がまた一つ追加される。
 おもらし。例え他人に知られなくても、その事実は決して取り返しがつかないのである。


「…………」
 痛み、苦しみ、気持ち悪さ、情けなさが、ひかりの目じりに水滴となって現れる。しかし、その滴が頬を伝うより早く、おもらしの第2波がひかりを襲った。

  ブビビビチビチッ!!
(だめーーっ……!!)
 ひかりは慌てておしりの穴を締め直し、スカートが汚れるのを構わず上から押さえつける。ここでおしりの穴を全開にしないところが、ひかりの経験のなせる業である。

(は、早くトイレにっ……!!)
 おもらしをしたからと言ってすべてが終わったわけではない。少量の排泄を終えた後は、おしりがぬるついていて開きやすくなっているが、腸内の圧力は減っている。したがって、しっかり上から押さえていれば、それ以上のおもらしを免れることは難しくない。その間に、とにかくトイレに駆け込む事ができれば……。

「ぅ…………」
  ギュルゴログルルルゴロロロロログルッ!!
 おなかのうなりを気にしている余裕はない。ひかりは走る。汚れたおしりをスカート越しに押さえて。

(トイレ…………!!)
 やっとトイレが見えた。
 それ以外のものは目に入らない。

(おねがい、あと少し…………)
 トイレに駆け込むことだけを考え、足を必死に動かす。
 一歩、二歩……その入口が近づいてくる。


 ふっ、と。

 視界がにわかに暗くなった。

「…………!?」
 視線の焦点を近づける。

 …………。
「……ぁ――!!」

 目の前に人影……!!


  ドンッ!!
「わっ!?」
「きゃっ!!」


 スローモーションになった時間の中で、ひかりともう一人の体が衝突する。
 ぶつかった相手は、男子にしてはやや小柄だったが、体重にしてひかりの倍近くはある。当然、より大きくバランスを崩すのはひかりの方である。

「……ぁぅっ……」
  ドサッ……。
 軽い体ではあるが、受け身を取れなかったことで地面にぶつかる勢いを殺せなかった。もちろん、受け身を取れなかったのは両手でおしりを押さえていたためである。大きな音を立てて、ひかりの体が通路の床に横たわった。

「ごめん!! だ、大丈夫!?」
 相手の男子も勢いがついていたせいか転倒は免れなかったが、受け身を取ってすぐに立ち上がった。

「は…………はい…………だいじょうぶ……っく!!」
  ギュルゴロゴロゴログゥゥゥーーッ……!!
 上体だけ起こしたところで、再び襲ってきた腹痛に体を折り曲げる。幸いにも転んだ瞬間の噴出は免れたが、おしりの圧力は全く余裕を与えてくれない。

「……もしかして、ケガを……ごめん、大変だ、医務室に……」
「だ、だいじょうぶですっ……!!」
 慌てた風の男子を前に、ひかりはおなかをなだめながら必死に声を出した。転んでぶつけた足や腰は痛いが、おなかの痛みに比べれば無視できる程度の痛みである。

「そう……ごめんね、ちょっと急いでて……。立てる?」
 そう言って、彼はまだ半身を倒したままのひかりに手を差し伸べた。
「……は、はい……」
 答えながらひかりは、初めてその少年の顔をはっきりと見た。短く整った黒髪に、優しそうな目元。声の調子も穏やかで、心からひかりを気遣ってくれているのが感じられた。

(あ…………)
 そして次に目に入ったのが、彼の着ている服である。野球のユニフォームだった。桜ヶ丘とは違う、灰色に細い縦縞の上下。膝元が少し汚れていた。
(いけない、早く立たなきゃ……)
 相手も転んで痛かっただろうに、そのことには触れずひかりに手を差し伸べてくれている。これ以上迷惑をかけるわけにはいかなかった。
 ひかりは、両足を地面につけて立ち上がろうと……

「……あっ――!!!」

 その瞬間、ひかりは気付いてしまったのである。
 倒れた勢いで、制服のスカートが半ばめくれ上がっていた。
 しかも、立ち上がろうと片膝を立てたその状態では、スカートの中が丸見えになってしまう。

(わ、わたし……うそっ……!!)
 スカートの中。
 通常、そこに見えるのは真っ白な下着である。もちろん、それを見られただけで、女の子としては耐え切れないほどの恥辱となる。
 だが、今のひかりのスカートの中の色は白ではない。下痢便をおもらししたパンツの、あまりにも汚い茶色なのである。それを初対面の男子に見られたとしたら――!!

「あ……!!」
「っ――……!!」
 ひかりが声にならない悲鳴を上げてスカートを押さえるのと、目の前の少年がやや上ずった声を残して視線をそらしたのは、ほぼ同時であった。

「あ、あ、あ……あの…………」
「あ、う、ううん、な、何も見てないから!!」
 真っ赤な顔でうろたえるひかりを前に、小柄な少年は大きく首を振る。
「で、でも…………」
「ほ……本当だよ、その……見えそうになったけど、すぐ見ないようにしたから……やっぱり、女の子にそんなことしちゃいけないと思って……」
 そう言って唇を噛む少年の表情は、真剣そのものだった。紅潮した顔の中で、瞳はまっすぐ前を見ていた。
(見えなかった……のかな……?)
 願望にも近い推測だが、その可能性は高い。少年の視線の真剣さはともかく、もしスカートの中の茶色のパンツを目にしていたら、この程度の反応では済まないだろう。
「……ごめんね、何て言ったらいいのかな、その……」
「……い、いえ…………あの……………………ごめんなさい……」
 ひかりは首を振りながら頭を下げた。謝ることには慣れているひかりだが、謝られることには慣れていないのである。
「ううん、謝るのはぼくの方なんだから、気にしないで。よし…………大丈夫?」
 ひかりがスカートの裾で膝までを隠したのを確認し、少年はひかりの手を引いた。
 小さな体が、軽々と引き上げられる。思ったより強い力だった。

「はい…………その、すみませんでした……」
 ひかりはただ謝るしかできない。トイレに駆け込もうとして周りを見る余裕もなく正面衝突したなどとは、恥ずかしくてとても言えない。ましてや、あと一歩でスカートの中を見られそうになった男子を相手には。
「ごめんね、ぼくも周りをよく見てなかったから……」
「ごめんなさい……」
「そんな、謝らないで……」
「でも…………」
 ひかりの視線はずっと下を向いたままである。

「……ごめん。ぼく、そろそろ行くね」
 謝り合いの様相を変えたのは、少年のその一言だった。
「は、はい……すみませんでした……」
「あ…………そうだ。桜ヶ丘の生徒さんだよね。隆君の完全試合、おめでとう」
「え……」
「明日、楽しみにしてるよ。……それじゃ……」
「あ……!!」

 軽く頭を下げながらそう言い残して、少年は階段を駆け下りていった。


(隆君って……あの人…………)
 少しずつ小さくなっていく姿。
 その背中には、細い縦縞ピン・ストライプに背番号1が刻まれていた。
(あのユニフォーム…………あれって…………)
 いくつもの情報が頭の中で交錯する。

  グギュルルルルルルルルッ!!
「はぅっ……!!」
 その思考を打ち破った強烈な腹痛、そして凄まじい勢いで駆け下ってきた便意。
 少年とのやり取りの間、おもらしをしなかったのが不思議なほどのとてつもない排泄欲求である。
 もしかしたら恥ずかしさが便意を上回って一時的にその欲求を忘れていたのかもしれない。だが、たとえそうだとしても再現性を確認したくはなかった。

(も、もうだめ……トイレっ……!!)
 おもらししてなお我慢を続けた必死の努力のかいあって、目指すトイレは目の前にある。後は個室に駆け込んでパンツを下ろすだけだ。もはや無意識のうちに、ひかりは個室の中へと小さな歩幅を進めていた。意識しているのはおしりの穴の感覚だけ。

 あと3歩。
 あと2歩。
 あと1歩。

  グギュルルルルルゴロゴロゴロゴロッ!!
「あ…………っ!!」
(だめ…………でちゃうっ!!)
 押さえた指の下でおしりの穴が膨らむ感覚。
 もう、本当に限界だった。

  ブビィッ!!
「ーー……っ!!」
  パサッ、ズズッ……!!
 3度目の汚濁の噴出を受け止め始めたパンツを、そのまま引きおろす。
 それと同時に便器にしゃがむ……!!

  ブリブビビビビビビビチビチビチビチビチビチビチビチッ!!
  ブビュルルルルビチチチチチブビブビブビィッ!!
  ビチャビチャビチャビチャビチャビシャァァァァァァァァッ!!

「うぅっ……」
 しゃがみきる前から、本格的な放出が始まってしまった。後ろを見る余裕などないが、便器の後ろの床だけでなく、個室の外までぐちゃぐちゃの下痢便が飛び散っているだろう。なにせ、駆け込んだばかりでドアを閉めてもいないのだ。

(ドア……ドア……閉めなきゃ!!)
  ギュルグルルルルルゴロゴロゴロゴログルピーーーーーーッ!!
 激しく唸りを上げ続けるおなか。その痛みに耐える。
  ビチッ!! ブビッ!! ビュルルルルッ!! ブジュッ!!
 我慢しようとしてもあふれ出すおしりの穴。その苦しみに耐える。

「っ……!!」
 わずかな時間おしりを便器の上からずらし、ドアを引っ張って閉める。おなかの苦しみを押さえ込みながら、震える手で鍵をスライドさせる。がくがくと感覚を失い始めている足で、ふたたび便器をまたぐ。

(これで…………!!)
 我慢とおもらしと恥ずかしさの果てに、やっと……。
 やっと、ひかりは排泄を許されたのだ。
「うん…………」
 汚れてしまったおしりの穴、その締め付けを、そっと弱める……。

「…………っ!!」

  ビチビチビチビチビチビチビチビチィーーーーーーーーーーーーッ!!
  ジュビビビビビブリリリリリリビチビチビィィィィィィィッ!!
  ブピブピブビビビビビッ!! ブリリリリリビチャビチャビチャァァァッ!!
  ブボビチャジュビッ!! ビチチチチチブジュビィーーーーーーーーーーーーッ!!

 すでに茶色の水飛沫で汚れきっていた便器の中に、滝のように大量の下痢便が注がれる。
 壊れた蛇口のように飛沫を飛び散らせながら、振動で個室中トイレ中に響き渡る音を立てながら、ひかりのおしりの穴が腸内の液状物を吐き出していく。

「ふぅっ…………うぅっ、んっ!!」
  ギュルゴロゴロゴロゴロゴロピーーーーーーーッ!!
 一瞬で缶ジュースほどの量の液体を便器内に注ぎ込んだにもかかわらず、おなかの痛みは少しも楽にならない。それどころか、出す苦しみと共鳴して腹痛も強くなっていくかのようである。

「っあ……うあぁぁぁ!!」
  ビュルビチビチビチィィィッ!! ブピーーーーーブピブピブピッ!!
  ジュビビビビビブジャビジャビィィィィーーーッ!!
  ブビブビュルルルルルルルルッ!! ビィィィブビブビブビビジャッ!!
  ブジュドポポポポポポポブビュルゥゥゥゥーーーーーーーッ!!
  ビチチチチチブビビビビビブジュブジュブジュビチィィィィィーーーーーッ!!

 止まらない排泄。さっきまで我慢できていたのが嘘のような勢いでの噴出。腸の奥がうごめき、おしりの内側を液体が駆け抜け、おしりの穴が爆音を立てて開く。自分の体が全く言うことを聞かなくなっている。おなかを壊す、という例えが厳然たる事実となって、小さな個室の中で描き出されていた。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!!」
  ブピッ……トポポポッ……ジュブッ……!!
 おなかの中が空っぽになるのではないかと思うほどの大量の排泄がやっと一息つき、おしりから断続的に音が響くだけになる。同時におなかの痛みがすうっと弱まり、ひかりはぎゅっと閉じていた目を静かに開けた。

(…………やだ……こんな…………)
 見渡す限りの茶色であった。
 まず目に飛び込んでくるのはパンツ。途中でトイレに駆け込んだとはいっても、もらした量は決して少なくなかった。おしりの穴の真下は布地の両端まで未消化物を浮かべた下痢便濾過装置になり果てている。前はおしっこの穴から後ろはパンツのゴムの近くまで、その全てが茶色に染まってしまっている。これをあの少年に見られる寸前だったと思うと、それだけで外に出られないほど恥ずかしくなる。
 床は、便器の後ろ一面に汚物が広がっている。パンツを下ろした瞬間、腰を下ろす前から噴出させてしまった下痢便が、地面に落ちてさらにその周囲に飛び散っている。それに加えて、肛門で弾けた汚滴が雨のように広範囲に広がった汚れ。それらの汚れはドアで途切れたように見えるが、実際にはその外側にまで広がっているのだ。今、誰かがこのトイレに入ってきたら、個室の外に飛び散った下痢便を見て何事かと思うだろう。
 便器の中。陶器の白色はほとんど見えない。縁の部分までも飛び散った下痢便で汚れてしまっている。排水口の近くは低くなっているはずだが、その部分にも液状便が流れ込み、おしりの下と同じ高さになってしまっている。そこから立ち上ってくる強烈な刺激臭。

「うぅ…………」
 視覚と聴覚と嗅覚を埋め尽くす汚物。だが、ひかりはまだ、その汚物を新たに生み出さなければならない。鋭い痛みはおさまったが、おなかの奥ではまだ下痢便が流動する音が響いていた。

「んっ……!!」
  ギュルゴロゴロゴロゴロゴグゥゥゥーーーーッ!!
 おなかに力を入れると同時に痛みが走る。その苦しみの頂点が数秒続き、そして。
「んぅぅぅっ……!!」
  ビチビチビチビチブビィィィーーーーーーーーッ!!
  ブビビッ!! ビュルビィッ!! ジュビビビビビブゥゥゥッ!!
 下痢便が直腸と肛門を駆け抜ける。

「あ、あっ……!!」
  グギュルルルルルルグルルルルルピーーーッ!!
 苦痛と引き換えに排泄を成しただけに少し休もうと思ったのだが、下痢便を出したことで新たな下痢便が腸の奥から送られてきて、連鎖的に腹痛が強まってしまったのである。
「く……ふぅっ……!!」
  ビュルブビビビビビビビッ!! ビチビチビチビチビチッ!!
  ブピィッ!! ビビビビビビブッ!! ビュルブビビビビーーーーッ!!
  ジュブビチビチビチビチビチッ!! ブジュビジャビュパブビューーーーッ!!
 こうなると排泄を抑えるわけにもいかず、ただその元凶を吐き出すしかない。

「うん……んぅっ……!! うぅぅぅっ……!!」
  ブピブピブピブゥゥゥゥッ!! ビチビチビチビィィィィィィッ!!
  ジュブビビビビッ!! ブビビビッ!! ビュバブリィィィッ!!
  ブジュブジュゥゥゥッ!! ブジュルブポッ!! ビチビチビチビィィィィィッ……!!
 おなかを楽にするための望んでの排泄と、内からの圧力に翻弄される望まざる排泄を繰り返して、ひかりのおなかは少しずつ落ち着きを取り戻していった。



  プピッ…………ビュッ…………ポタッ…………。
「………………はぁ………………はぁ………………」
 ひかりが個室に駆け込んでからおよそ10分。
 排泄時間としては長いほうだが、下着と床と便器とにあふれ返る大量の下痢便を見ると、この短時間でこれだけ出したのか、と思うことだろう。

(後始末…………しなきゃ…………)
 だが、おなかが楽になってもひかりに安息の時間は訪れない。おもらしの跡が残る肌を拭い、汚れた下着を処分しなければならないのだ。

「……え………………!?」
 そこまで考えて、ひかりは初めて気がついた。
 個室の中には、おしりを拭くための紙も、下着を捨てるための汚物入れもないということに。
(ど、どうしよう…………!!)
 他の個室を選んでいれば、との後悔はない。目の前の個室に飛び込むしか手段はなかったのだから。だが、紙がないというのはどうしようもない。おしりを拭くための紙、もしくは布…………。


「ぐすっ…………」
  ゴボゴボゴボジャーーーーーーーッ……!!
 便器の水を流しながら、側面から前面まで汚れたパンツをその便器の水で洗う。

(パンツ……まただめにしちゃった…………)
 まだ汚れていなかった部分でおしりの汚れを拭いた後、そのパンツを水で洗っているのである。だが、尾てい骨のあたりにまだ茶色い汚れが残っている。白い部分だけでは拭ききれなかったのだ。

「んっ…………」
  ぴちゃっ…………。
 全体が薄茶色になった下着を軽く絞り、おしりに当てる。腫れ上がった肛門に、冷たい下着が刺激を与える。
  くちゅ、くちゅっ…………。
「………………っ…………」
 おもらししたパンツを洗っておしりを拭くという恥ずかしさに、ひかりは小さな個室の中で身悶えていた。
(わたし……また…………こんな…………おもらし…………)
 我慢できなかった自分への後悔が、いまさらのように押し寄せてくる。決して途中で我慢を放棄したわけではなく、本当の我慢の限界だったのだが、それは言い訳にはならなかった。ひかりに過失がなければ、汚れた下着が真っ白に戻るというわけではないのだ。

  コン、コンッ……。
「え…………」
 突然響いたノックの音に、ひかりは体を硬直させた。

「ひかり……」
 ひかりがスタンドからずっと見つめていた、兄の声がそこにあった。
「…………お兄ちゃん…………」
 ひかりは涙をこらえて声を出した。

「もう大丈夫か?」
「……あの…………紙が…………」
 まだ個室の中には下痢便が飛び散っている。汚れたパンツでかろうじて拭えたのは自分のおしりだけだった。
「紙なら持ってきたから。大丈夫なら開けてくれ」
「………………っ…………うん…………」
 ひかりは数秒ほど心を迷わせた後、扉をそっと開けた。

 個室の半分ほどがのぞき、その床の大半を埋め尽くす下痢便が隆の目に飛び込んできた。

「………………」
「……あ、あの……ごめんなさい……」
 ひかりはただ、頭を下げるしかできなかった。

「こんなに……我慢してたのか」
『こんなに……我慢してたのね』
 隆の言葉に、いつか聞いた声が重なる。
「…………うん……」

「もしかして……俺のために……?」
『お兄ちゃんのために……我慢したのよね?』
 はるか昔の自分に、手を差し伸べてくれた人の姿が重なる。
「…………うん」

『……今度はきっと、最後まで我慢できるわ』
「…………うん…………」
「……ひかり……?」
『……その時が来たら、言ってあげなさい』
 あの日の母の言葉が、ひかりの心を満たした。

「…………おめでとう……お兄ちゃんっ……!!」

 ひかりは、開かないようにしていた扉を離れ、兄の胸に顔をうずめた。

 個室の中の床や、その隅に置かれた下着は、今も茶色の液体で染まっている。
 だが、ひかりの目から零れ落ちる涙には、ほんの少しの汚れもない。


 この日――隆は初めて、ひかりが見守る中で勝利投手になった。

 内野ゴロ5、内野フライ6、三振16――完全試合。

 この日の記録と、この日の記憶を汚すものは、何一つ存在しない――。



あとがき

 長いこと休んでしまいましたが、つぼみの新作です。
 今回は野球がメインなのですが、まず試合内容と排泄描写の文章量配分で悩みました。さらに試合の描き方も今ひとつペースに乗れずに手間取ってしまいました。基本的に試合描写を軽くした方が良いというのはわかっていたのですが、完全試合というのを描かないといけないのであまり削るわけにも行かず、結局はいつもの物量作戦で乗り切ることになってしまいました。後半、ひかりの我慢が始まってからはなんとかリズムがつかめた気がします。ひかり以外のキャラの出番が減ってしまいましたが、文章の流れを優先ということでお許しください。

 さて、今回の見所は「曲がり角正面衝突」です。「つぼみたちの輝き」は、ごく一般的な恋愛ものの話にあらゆる場面で排泄描写を叩き込む、というのがコンセプトなので、少女漫画の王道とも言えるシチュエーションにもこれを適用してみました。
 すなわち、「倒れて見えそうになる女の子のパンツがおもらしで汚れていたらどうなるか」。
 恥ずかしがりなひかりのキャラクターのせいもありますが、なかなか魅力的なシチュエーションに仕上がったと思っています。あの少年がひかりのおもらしパンツを見てしまったかどうかについては、しばらく後の話でゆっくり語る予定です。あの少年が何者かについては……すぐにわかると思いますが。

 さてさて次回予告です。

 けやき野地区大会決勝戦、桜ヶ丘中学校対高峰中学校。
 準決勝で完全試合を成し遂げ、意気上がる桜ヶ丘の背番号1、早坂隆。
 対するはここまで温存され、今大会初登板となる高峰の背番号1、穂村雄一。
 振り下ろす左腕と振り上げる右腕が、スコアボードに次々とゼロを刻んでいく。
 満身創痍の二人の決着は9回裏、二死三塁。
 一打同点、一発逆転……ひかりはその結末を見届けることができるのか。

 つぼみたちの輝き Story.21「贖罪の白球」。
 いつまでも、どこまでも、白球は空を翔ける……届かなかった思いを乗せて。


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