つぼみたちの輝き Story.7

「叶わなかった願い」


香月 叶絵(こうづき かなえ)
14歳 桜ヶ丘中学校3年2組
体型:身長:156cm 体重:45kg 3サイズ:79-51-82



 非常ベルが鳴り響いている。
 視界が煙でぼやけている。
 まとわりつく熱気が、肌に汗を浮かべている。

 非常事態。
 煙と熱……火事。
 逃げなければいけない。
 建物から出なければいけない。
 この場所から飛び出さなければいけない。

 でも……動けない。
 身体の奥底からわきあがる痛み、そして……。

 ジリリリリリリリリリリリッ!!

 非常ベルの音が大きくなる。
 怖い。
 これ以上……ここにいるのは怖い。
 外に……外に出なきゃ……。
 この扉……扉を開ければ……。

 ……手を伸ばす。
 ……鍵を開ける。

 扉を、開ける……。



「――っ!!」
 跳ねるように飛び起きた。
 ……起きた。

「夢……か……」
 渇いた喉から、そうつぶやく声が漏れた。
 振り乱していた長い髪が、重力に従って静けさを取り戻す。

「………………」
 何年経っても、心から消えない記憶。
 消すことができたら……どれほど楽になれるだろう。
 でも……それが叶わない願いであることも、彼女……香月叶絵にはわかっていた。


「……おはよ、母さん」
「あら。おはよう、カナ」
 身支度を終え制服に着替えた叶絵がダイニングに入ると、キッチンからエプロン姿の母親が顔を出した。
「今日はやけに早いわね。いつもはサチに起こされてるのに」
「……ちょっと、目が覚めちゃってさ」
 そう言いながら食卓につく。

 程なく、母が朝食を運んできた。味噌汁に塩鮭の切身と、純和風の朝食に見える。
 ……茶碗に盛られたご飯が、鮮やかな黄色に色づいていることを除けば。

「母さん……これ……何?」
「サフラン入り炊き込みご飯よ」
「さ、サフランって……」
 叶絵の疑問はもっともだ。サフランは洋食用の香辛料で、リゾット、パエリアなどに使われるものである。それが炊き込みご飯とは……。
「ま、食べてみなさい」
「……うん……」
 恐る恐る口に運ぶ。箸でつかんで崩れないところを見ると、どうやら炊き込みご飯という名前に偽りはないらしい。あとは味の問題だが……。

「う……おいしい」
 サフランの風味を残しつつ、ベースとなる醤油と出汁の味が利いている。口ざわりもべたつかない、朝食としても申し分ないものだった。
「でしょ〜。結構自信作なんだから」
 母が、会心の笑みを見せた。

「おや、今日は叶絵が早起きか」
 台所に父が顔を見せる。
「父さんまで……」
 叶絵がつぶやく。確かに、普段は遅刻ぎりぎりまで寝てるから、食卓で顔を合わせることも少ないのだが……。
「あ、あなた。はい、今日の朝ご飯、サフラン入り炊き込みご飯よ。味は叶絵からもお墨付き」
「……あたし、毒見係……?」
「味見といいなさい、味見と」
「どっちだって同じじゃない……」
「本当は幸華に見てもらおうと思ってたんだけどね……やっぱり、昨日3時まで起きてたせいかしらね」
「え……何してたの、そんな時間まで」
「お料理の練習。サチのクラス、今日調理実習なんだって」
「練習って……」
 調理実習を前の日に予習していくなど、聞いたことがない。
「まさか、学校でこーんな謎料理を作る気なの?」
「そうよ。サチは結構、筋がいいのよ。カナも食べてみればわかるわ」
「うーん……美味しいかもしれないけど……食べるのに勇気がいるんだよね……」
 母の料理がまさにそれだ。一般的なレシピに載っているようなものはまず作らず、いろいろと調味料などでアレンジを加えてしまう。それでも味はそこらの店などより上なのだから、不思議という他ないが。
「カナも、本格的にお料理勉強してみない? 絶対上手くなると思うんだけど」
「いいよ、あたしは……そういうガラじゃないし……」
「そんなことないわよ。好きな男の子ができたら、手料理を作ってあげたいなとか思うわよ、絶対」
「………」
 好きな男の子……。
 その言葉を聞いて、一瞬、心の中に人の影が浮かぶ。
 だが……ぼやけていた像の輪郭が形作られる前に、叶絵は首を横に振った。
「べ、別にそんなこと思わないよ……たぶん……」
「……カナ〜? 今の間はなぁに?」
「な、何でもないよ」
「……カナ? オトコができたらすぐ紹介しなさいって言ってるでしょ?」
「そ、そんな奴いないってばっ!!」
「隠さなくてもいいじゃない。で、どんな子なの?」
「だから……あー、もういい。あたしもう学校行くから! ごちそうさまっ!!」
 強引に話を打ち切り、席を立つ叶絵。そのままダイニングを後にする。
 ……食卓の脇では、父が呑気に味噌汁をすすっていた。


(まったく……若すぎるのも考え物なんだから……)
 母のことである。
 仮にも思春期の娘に、「男ができたら連れて来い」とは……。
(やっぱり、母さんの相手は幸華に任せておくのが一番かな……)
 妹の幸華はそういう話も大好きで、本当にこの母にしてこの娘ありという言葉がぴったりだ。
 きっと、昨日の料理の練習とかいうのも、さぞや楽しそうにやっていたに違いない。

「……ふぅ」
 ダイニングから離れて、一息。
 階段の下まで来て、荷物を取りに自分の部屋に上がろうというところ。
(……せっかく早起きしたんだし、行っておいたほうがいいよね……)
 そう思って、階段の横にあるドアを開ける。

 開けた部屋は……トイレ。
 朝食を食べて、わずかに感じた便意を解放するために、叶絵はそのドアを開けたのだった。

「…………」
 閉じられていた洋式便器の蓋を開けると、ピンク色のカバーに覆われた便座が目に入ってくる。そっとスカートの中に手を差し入れ、身に付けていた下着を下ろす。薄いグレーの、スポーティなショーツが膝元まで下ろされる。
 そのまま便座に、少し浅めに腰を下ろす。両足の上をスカートが覆い、その端から、膝と下ろした下着がのぞく状態。その状態で、叶絵は下腹部に力を入れ始めた。

 ……トイレのドアを開けたままで。


 今日も夢に見た、はるか昔の記憶。
 ……あの時味わった、胸がつぶされそうな恐怖。
 その場所が……トイレの個室の中だった。

 それ以来……叶絵は、この密閉された空間に、扉を閉めて入ることができなくなってしまったのである。


「ふっ……」
 力を入れると、まず膀胱が熱くなるのがわかる。
 そう言えば、起きてからおしっこに行ってなかった。一晩分の尿が身体の中に溜まっているのである。
 そっと尿道口の力を抜くと、勢いよく黄金色の液体が溢れ出した。

  プシャァァァァァァァッ……。

 うつむいて、目を閉じる。
 顔は、うっすらと赤い。

 はっきりとわかるアンモニア臭。
 尿道から飛び出す時のかすかな音。
 便器の水面を叩く、大音量の水音。

 それらはすべて……扉を隔てていない、トイレの外にも伝わっているのだ。

 恥ずかしくないわけがない。
 いくら外にいるのが肉親だといっても。
 普通なら、物心ついた後には排泄姿を人に見せることなど一生ないはずなのだ。

 でも……どうしようもない。
 トイレのドアを閉めると、すさまじい恐怖感に襲われ、心臓の鼓動がどんどん早くなり……最後には、扉を開けて飛び出すことになる。
 だから……こうするしかないのだ。


「んっ……ふっ……」
  ショロロロロロ……チィ……
 小水を出し切った後……叶絵はそれ以上に強く息み始める。
 もちろん……大便の時であっても、扉を閉められないことに変わりはないのだ。

「んんっ……」
 ぴったり閉じられた両足、その上を覆うスカートのために隠された彼女の秘部。
 その一番奥にあるおしりの穴が、ぐっと外に押し出される。
 ……だが、その中から、出てくるべき物体は姿を現さない。

(昨日……我慢しすぎたからかな……)
 部活中にもよおしたものの、学校でするわけにはいかないからと我慢を続け、家に帰った時にはすっかり便意がなくなってしまっていたのだ。
 それだけに、なんとしても今のうちに出しておかないといけない。学校で耐え切れないほどの便意に襲われたら……。

「んんっ……くぅ……」
 さらに力を入れ、おしりの穴を全開にする。
 そのまま息を止め、ひたすらに力を入れる。

(あっ……)
 肛門の内側で、何かが動く感覚。
(あと一息……)
 おしりの穴が、固い便によって押し広げられているのがわかる。
 それをさらに押し出すべく……叶絵はもう一息、おなかに力を入れた。

(出る……っ!)
  ミチミチミチッ……。
 おしりの穴から便の先端がのぞき、同じ速度でその内側の部分がじわじわと出てくる。
 親指ほどの長さが顔を出したところで、その勢いが止まった。
 太さは奥になるにつれて増しており、おしりの穴の広がる大きさが限界に達してしまっていたのだ。

(もう……少しっ……)
「んっ……!!」
 一瞬だけ力を抜いて息を吸い込み、そしてもう一度力をこめる。
 その間、便は切れもせず落ちもせず、おしりの穴から垂れ下がっていた。 

「ふぅぅぅっ!!」
  ミチ……ニュルルルルルルルルッ!!

 頭の部分が出てしまうと、あとは一気だった。先端よりやや柔らかい便が、一気に押し出され、便器の中へ飛び込んでいった。一つながりになったまま水の中まで押し出されたため、水面を打つ音もしない。

  ニュルニュル……プチュッ!!……ピチャッ!
 そのまま力を入れつづける。
 やがて一つながりの便は自然に切れ、かすかな空気の音と水音を残して便器に吸い込まれた。
 先端部を除いて太さこそさほどではないが、延べ長さは40cmほどに及ぶかなりの大物の便である。一部は折れ曲がって水面の上に出て、そこからかすかな臭いが放たれている。

「……はぁっ……はぁ、はぁ……」
(まだ……出るかな……?)
 排泄が一段落した間に、残便感を見積もってみる。
(もう少し……)
 たぶん大丈夫だろうけど、時間があるなら出してしまいたい。
 それが答えだった。

「ふぅっ……」
 もう一度、力を入れる……。

  トタ、トタ、トタ……。
 そこへ、足音が近づいてきた。
 階段を下りてくる足音。とすれば、足音の主は……上でまだ寝ていた幸華。ということは、自分がトイレに入っていることは知らないはず。
 伝えなければ……そう思って声を出す。
「ちょ、ちょっ……」

 だが遅かった。その声が幸華の耳に届いたのは、彼女がその部屋の正面に回り、中を確認した瞬間だった。

「え……あ、姉さん? ごめんっ!!」
「……っ……ごめん……」
「ね、姉さんはあやまんなくていいのっ……あたしが悪いんだから……」
「………………」
「ゆ、ゆっくりしてていいからね。じゃ……」
 妹の気遣い。
 すぐ身を隠した幸華にも、伝わっていたはずなのだ。
 便器の中から漂っていた、排泄物の臭い。
 それでも、幸華は嫌な顔一つ、文句一つも出さない。
 その心遣いが嬉しくないわけはない。
 幸華だけでなく、両親も同じような態度を示してくれる。だから……家の中、このトイレだけは、かろうじて落ち着ける場所になっているのだ。
 これが、「トイレのドアを閉めるくらい、どうしてできないの」と、非難の言葉を投げてくるような家族だったら、叶絵は人生に絶望してしまっていたかもしれない。
 だから……感謝してもし足りないくらいだ。

 でも。
 迷惑をかけて申し訳ない……。
 その思いだけは、消えることがない。
 一番落ち着くはずの、家のトイレ。
 叶絵の心は、その中でさえも完全に休まることはないのだ……。


「行ってきまーす」
 結局、家を出るのはいつもより少しだけ早いくらいの時間になってしまった。
 あの後、トイレで多少頑張っていたものの、結局それ以上うんちは出てこなかった。
 幸華の顔を見たことで、完全に引っ込んでしまったらしい。
 まあ、今日一日くらいは切羽詰ることはないだろう。

 いつもより少しだけ晴れやかな気持ちで、叶絵は学校へと向かった。



  キーンコーン……。
「はーい、それじゃ終わりにしましょう。そうそう、来週の修学旅行では、京都にいる間に俳句を一人一句ずつ詠んでもらいますから、今日の授業はよく覚えておいてくださいねー」
 3年2組担任、高野先生の甘ったるい声が響く。
「起立! 礼!!」
 それを打ち消すように、日直の男子が号令をかけた。

「そっか、もう修学旅行、来週なんだね」
「どう、美花ちゃんは自由行動の予定、決めた?」
「ううん。まだ全然。あやは?」
「お買い物しようかな、ってくらい。織恵ちゃんも来る?」
「う、うん……い、一応、そのつもりだけど……」

 教室のあちこちで話が始まる。
 叶絵の目の前では、クラスメートの仲良し3人組が、間近に迫った修学旅行について楽しげに話している。叶絵としても、この3人とは比較的仲がいい。女子の中では一番かもしれない。うち二人とは前後の席で同じ班ということもあり、休み時間などはそれなりに話している。
 おかげで、一番の話し相手……からかい相手といった方が正しいかもしれないが、早坂隆と席替えで離れてしまっても、それほど退屈するということはなかった。

「ね、カナさんはどうするの?」
「あたし? んー、別に決めてないけど……」
「だったら、みかたちと一緒にお買い物しない? おみやげとかもいろいろ選びたいでしょ?」
「うん……えっと……」
 ちらりと教室の後ろに目をやる。
 早坂隆と白宮純子が、隣同士の席で楽しげに話しこんでいた。
(望み薄……か)
 修学旅行の自由時間、隆と一緒に行動できたら楽しいだろうなとは思う。しかし……ここ数日の二人の急接近を思うと、その可能性は限りなく低いように思えた。
 何しろ、相手はクラスどころか学校中のアイドル、白宮純子である。それに比べて、色恋沙汰とは無縁の叶絵。友達としてならともかく、異性としてどちらを好むかは考えるまでもないだろう。
(……って、なに考えてるの、香月叶絵。隆くんとは友達で十分なはずなのに……)
 決して以上ではない、イコールの友達。その関係でよかったはずなのに……。
 原因はわかっている。
 隆が純子と仲良くし出したこと。もし、二人がつきあうことにでもなれば……その時は、「異性の友達」という立場など成立しなくなってしまうだろう。かといって、純子と恋人の座を争うわけにもいかない。勝ち目がないのはともかく、隆はそういう存在じゃないんだと自分の心が告げている。
 結局……何もできないままなのだ。

「……カナさん?」
「……あ、ご、ごめん、ちょっと考え事。うん……たぶん、一緒に行くことになるんじゃないかな」
「そっか。よかった……もしかしたら、早坂君と一緒に行く約束とかしてるんじゃないかなって」
「ええっ!? そ、そんなことないって……」
「でも……」
 前の席の美花と、離れた席から話しに来ていた彩子が顔を見合わせる。
(やっぱり、そう見えるのかな……)
 別に隆に対して特別な感情はないはずなのだが……傍から見るとそう見えるらしい。
「あ、あの……っ」
 二人の横で黙っていた織恵が声を上げる。
「どしたの、織恵ちゃん?」
「そ……その……私……おトイレ…………授業中から、ずっと我慢してて……」
 真っ赤な顔で、蚊の鳴くような声を出す。
「……そ、そうだったの、ゴメンね。……じゃ、みかも、一緒に行くよ」
「あ、わたしも……実はさっきから行きたかったの……」
「あ……カナさんは?」
「え……あたし?」
 突然話を振られて目を丸くする。
 一緒にトイレに行かないか……という誘いだ。

 自分の身体と相談するまでもなく……返事は決まっていた。

「あ、あたしはいいから。気にしないで行ってきて」
「あ……うん。それじゃ……」

 そう言って、三人が教室を後にする。

 さっきまで女子4人で騒がしかったその場所には、叶絵が一人残された。


「……っ」
 自嘲的な笑みを浮かべる。
 何度も経験して慣れている、けど、決して好きにはなれない孤独感。

 桜ヶ丘中だけに限らず、女子は何人かで連れ立ってトイレに行くことが多い。もちろん、専ら小用の時で、多少品のないいい方をすれば「連れション」である。
 もちろん、ただ一緒に行って用を足すだけではない。一緒にトイレに行く間、個室の前で待っている間、用を済ませた後の洗面所などでも、絶えずおしゃべりをする。中には、個室に入ったまま、小便を出しながらしゃべっている女子もいるほどだ。

 すなわち……女子にとって一緒にトイレに行くことは、大切なコミュニケーションの手段の一つと言って過言ではないのである。

 そして……叶絵にはそれができない。

 扉を閉めて用を足すことができない彼女は、友達と一緒にトイレに行くなどということは考えることすらできない。
 したがって彼女は……女子同士のコミュニケーションの手段の一つを、完全に放棄せざるを得ないのである。

 だからかもしれない。
 叶絵が、女子の誰かと極端に仲良くなることがなく、一番の仲良しが男子の早坂隆という人間関係を築くことになったのは。

(あ……)
 ふと泳がせた視線が止まる。
 その先にいた相手も、同じように視線を彷徨わせていた。
 その視線が交差する。

「……くすっ」
 ふっと表情を緩ませる叶絵。
 そう……トイレに行く女子たちを見送って一人になった後、いつもこうして一緒に話していた相手。
 それが、早坂隆だった。

「白宮さんはどうしたの?」
 隆の席まで歩いていって、話し掛ける。
 隆の方もそれを待っていたかのように、口を開いた。
「ああ……職員室に行くって。すぐ戻る、とは言ってたけど」
「そっか」
「そっちは? 植本たちと話してたんじゃ?」
「あ……トイレだって。3人一緒に。」
「そ、そっか……香月はいいのか?」
「うん。別に……」
「そっか……しかし、香月ってトイレに行くとこ見たことないな」
「え……そ、そう?」
 思わずドキリとする。
「ああ……」
「……そ、そうだね……じゃあ、美少女はトイレに行かない、ってことでどう?」
「あのな……自分で言うなよ。それに、さっきの永嶋とか真中とかの立場がないぞ、そのセリフ」
「むぅ……でも、白宮さんとかも、あんまり見たことないでしょ?」
「それは……………」
 隆が必死に記憶をたぐる。
 純子の口からそんな言葉の一つも聞いていれば、決して忘れたりしないはずなのに……。
 ………………。
「……確かに……」
 記憶になかった。純子がトイレに入っていくところも、そんな言葉を聞いたことも……。
「ね。じゃ、『美少女はトイレに行かない』が証明された、ってことで」
「おい……勝手に証明するなって」
 もちろん……隆は、その命題が偽であることをよく知っている。
 最も身近なところに、最も端的な反例があるのだから……。

「そういえば香月、修学旅行はどうするんだ?」
「え? どうする……って?」
「自由行動とかさ。誰と一緒に行くとか、もう決めたのか?」
「別に決めてないけど……なんで訊くの、そんなこと?」
「いや……暇だったら、一緒に回ってもいいかなって」
「えっ!?」
「な……そんなでかい声出すなって」
「だって……白宮さんと一緒に行くんじゃないの?」
 問い詰めるような口調で隆に迫る。
「い、いや……予定とかあるかもしれないしさ。それに、予定聞いたら、なんかいかにも一緒に行こうって誘ってるみたいでさ……」
「あんたね……なんでそんな弱気なこと言ってんの? 普段はもっと無神経なくせに」
「い、いいだろ別に……それに無神経って何だよ」
「事実でしょ。……とにかく、誘ってみたらいいと思うけど。……きっとOKだろうし」
「そ、そんなこと言ってもな……」
「一緒に行きたいんでしょ?」
「それは…………そ、そうだけど……」
「だったら……」
 隆を促すようにまくし立てる。

 隆のこういう、真面目……というか純朴なところは嫌いじゃないはずなのに、なぜか腹が立つ。
 隆の提案にうなずいていれば、一番いい結果になったのかもしれない。修学旅行を一緒に過ごせば、きっと楽しいとは思う。
 でも……何かが違う。それで完璧な満足が得られるかといえば、答えはノーだろう。
 だから……結果として、こうして隆と純子の仲を応援するような行動になってしまっている。本当は、そんなことは望んでいないのに……。


「ごめんなさい、遅くなって……」
「あ……」
「あら、香月さん……?」
「あっ……」
 隆と叶絵が、同時に言葉を詰まらせる。
「ご、ごめん……あたし、席に戻るね」
「あ……別に、気にしなくていいのよ。何の話をしてたの?」
「え……」
「あ……」
 再び言葉に詰まる二人。
「えっと……」
「修学旅行の話……かしら?」
「え……う、ううん、ち、違うって。えっと……」
 叶絵が慌てて言葉を取り繕う。
「そ、そう……あ、『美少女はトイレに行かない』って話。ほら、隆くんが、白宮さんがトイレに行くとこ見たことないって言うから」
「え……っ!?」
「お、おい香月……」
「ね、白宮さん?」
 隆のたしなめを無視して、叶絵が純子に問い掛ける。
 ……純子の顔は真っ赤になっていた。
「……白宮さん?」
「あ、そ、そうですね……そ、そそ、そういうことにしておいてくださいっ!」
 真っ赤な顔のまま、慌てきった口調で声を出す。
「……ほら、香月が変なこと言うから、白宮さん困ってるだろ」
「あ、そうだね。ごめんね白宮さん……あたし、席に戻るから」
 そう言って、返事を待たず背を向ける。
「おい、香月……」
 隆の言葉にも返事をせず、叶絵はそのまま席に戻っていった。
「ったく……ごめん、白宮さん……」
「い、いえ……そ、その、き、気にしないでください、私なら別に……」
「…………」
 まだ、純子は落ち着きを取り戻していなかった。
(修学旅行の話とか……できる雰囲気じゃないよなぁ……)
 そう思って、苦々しく思いながらその元凶である叶絵の方を見る。
 ……叶絵はもう、視線を合わせてこなかった。



 ……昼食後。
 叶絵は、体育館に来ていた。
 ……と言っても、運動をするわけではない。
 舞台の脇、演劇部の部室……と言うか、道具置き場へ向けて歩いて行く。
 ……と言っても、昼休みから練習をするわけでもない。
 目的地はさらに先だった。
 舞台脇にある、誰も使わないような木製の扉を開けると、そこは体育館裏。薄暗くも雑草が生い茂り、立っても膝から下は見えなくなるような、そんな場所。
 そこが彼女の目的地だった。
 そして目的は……排泄行為である。

 ゆっくりと扉を閉めて排泄ができない叶絵にとって、学校での排泄は大問題である。教室の近くのトイレなどは、休み時間ごとに女子で一杯になり、とても扉を開けっ放しでできる状態にはない。
 いくつか教室から遠く、あまり人の来ないトイレというのもあるが、そういうところは、教室の近くのではしにくい大便をする生徒がごく稀に来たりする。しかも共同だったりするから、最悪の場合、開けっ放しで排泄する姿を男子に見られることになるのだ。
 かといって、ずっと我慢するわけにも行かない。大の方ならもよおす回数も少ないし、なんとか我慢することもできるのだが、さすがに日に何度も行きたくなるおしっこを一日中我慢するというのは不可能で、どこかで必ず出さなければいけない。

 そして彼女が選んだのが……この場所だった。
 日も当たらず、ゴミも散乱している体育館裏。休み時間などなら、人が来る心配はほとんどない。しかも、演劇部という立場があるから、あの扉を使えば怪しまれることなくここに来ることができる。
 もともと地面が湿っているし、小便の水跡も数時間もしないうちに消えてしまう。さすがに後々まで痕跡が残る大便はできないが、この「野外トイレ」のおかげで、叶絵はなんとか無事に学校生活を送ることができるのだった。

「んっ……」
 キョロキョロと辺りを見回しながら、草が踏み分けられている部分で腰を下ろす。昼休みは、ごく稀にどろじんなどをする生徒がこの辺にやってくることがあり、多少危険度が高まる。しかし、給食前からもよおしていたこともあり、もう限界だった。給食が終わってすぐで、まだみんな教室に残っている時間とはいえ、警戒を解くわけにはいかない。

「ふっ……」
  シュイィィィィィィィィ……。
 黄色い水がほとばしる音が、体育館裏に響く。水分を控えているせいか、色もにおいもきつい。
 しかし、叶絵はそのことよりも、周りから足音が聞こえて来ないか、そのことに全神経を集中していた。

 シュゥゥゥゥゥゥゥ……。
 カサ……。
「!!」
(誰か来た……!!)
 地面を踏みしめる足音。まだ距離はあるが、間違いない。
(この分なら……間に合う……)
 幸い、小水の勢いは弱まりつつある。この分なら、右手に用意してある紙でひと拭きするくらいの時間的余裕はあるはずだ。

 シュィィィ……ピュッ……ピュピュッ……。
(いや…………早く終わってっ……)
 かなり我慢していたせいか、「切れ」が悪い。このままでは……。

 ピュッ……。
(終わった……!!)
 その瞬間、足音はかなり近くに来ていた。もう、体育館の角あたりまで……。

(こうなったら……)
 一秒の猶予もない。叶絵は尿道口の周りを拭きもせずに、下着を引き上げた。
 同時に立ち上がり、音と反対方向に走り出す。

 もしかしたら姿は見られるかもしれないけど、少なくともここで用を足していたことはばれないはず……。そう思っての行動だった。
 だが、叶絵の予想は、いい意味で裏切られた。

「姉さん!!」
「え……?」
 聞き慣れた声に振り返ると、そこには妹の幸華が立っていた。手には小さな箱を下げている。
「……な、なんだ……幸華だったの……おどかさないでよ……」
「ごめんごめん。だって、他の人だったらまずいでしょ?」
「でもね……幸華だってわかってれば……」
(拭かないまま下着履かなくてもよかったのに……)
 スカートの中の、少しだけ肌に張り付く嫌悪感を、叶絵ははっきりと感じていた。
「次から気をつけるから。ね、それより姉さん、調理実習でプリン作ったの。2つあるから、一緒に食べよう?」
「ん……同級生の友達とかにあげなくっていいの? 結構、いろんなとこで仲良くやってんでしょ?」
「あ、えっと……その、みんなおなか一杯みたいだったから、さ」
 幸華は、ほんの一瞬だけ口ごもった。が、それを感じさせない明るい表情で言葉を続ける。
「……ならいいけど……変なもの入れてないでしょうね」
「大丈夫大丈夫。さっき味は確認済みだし。ほら、こんなに美味しそう」
 そう言って、手に持っていた箱を開けてみせる。
「……それはわかるけど、ねえ幸華?」
「なに?」
「料理する前、ちゃんと手、洗ってる?」
「もちろん、洗ってるに決まってるじゃない」
「じゃあ、ものを食べる前は?」
「もちろん……あ」
 はっと気付く。
「……そういうわけだから。そこの水道で洗ってくるから……屋上ででも食べよっか」
「うん。……ごめんね」
「気にしなくっていいの。ほら、早く行こう」
 そう言って歩き出す叶絵。その後ろを、幸華が笑顔でついていった。


 そして……6時間目。
(幸華のプリン……美味しかったけど……ちょっと甘すぎかな……まだ、甘味が舌に残ってる……)
 あれから何度か水を飲んだけど、なかなか甘ったるい感覚が消えてくれない。そのあたり、まだ幸華の料理の腕は母に及ばないのかな、と、叶絵は思っていた。
(でもま、才能はあるよね……十分美味しかったし……)
 そんなことを思い浮かべながら、英語の訳をノートに書き写していた。
 中間試験と期末試験の、ちょうど中間の時期。特に慌てることもなく進む授業が、同じペースで流れて行く。

 そんな平和な時間が……突然、終わりを告げた。

  ゴロッ……。
「……!?」
 身体の中に感じた違和感。ゾクゾクと、背中が震えるような感覚。
 その音の発生源は……下腹部。

(も、もしかして……)
 決して思い出したくない感覚。だが、身体の中に発生した異常事態は、その感覚を一つ一つ克明に呼び起こしていった。

  ギュルルルルルルッ!!
「っ……」
 まず襲ってきたのは、腹痛。おなか全体が締め付けられるのではなく、左下腹だけを突き刺されるような激しい痛みだ。

  ゴロロ……グルルルルルルルルッ……。
「うぅ……」
 続いて、おなかの中で何か……いや、流動物だとはっきりわかる。それがうごめく感覚。その方向性は……上から下へと駆け下るものだった。

  ギュルギュルギュル……ゴロロロロロロロッ!!
「ぁっ……」
 そして……肛門の内側に感じる、熱い水っぽさ……。
 半ば覚悟していた、それでもできるなら感じたくなかった……便意である。

(ど、どうしよう……)
 急激な便意の高まり。
 間違いない……おなかをこわした、下痢の症状だ。今にも、力を抜いたらあふれそうなほど切迫している。
 とても……家に帰るまで我慢できそうにはない。
 かといって、学校でするわけには……。トイレではできないし、体育館の裏でも大きい方、ましてや下痢便を出してしまうわけにはいかない……。

(今すぐ手を挙げて、トイレに行かせてもらえば……)
 そうすれば今は授業中。誰もいないトイレで、ドアを開けたままでも用が足せる。
 だが……もう授業が終わるまで5分程度。その間に出し切らなければ、掃除の生徒たちが確実に入ってきてしまう。授業終了まであと少し……我慢するには幸いだが、今の叶絵にとっては仇になっていた。
(そ、そもそもそんなこと言えるわけないじゃない……)
 そもそも授業中にトイレに行くなど、中学生の女子には限りなく恥ずかしいことだ。毎日顔を合わせるクラスメートの前で、おなかをこわしていると宣言しなければいけないのである。しかも、さっき隆に「美少女はトイレに行かない」と言い放ったばかりなのに……。
(そ、そんなことより……ど、どうしよう……)
 焦るばかりで考えがまとまらない。
 時間は刻一刻と過ぎて行く。
 時の流れは、授業の終わりに……そして、叶絵の限界に向けて、同じ速さで進み続けていた。


「んじゃ、授業終了。掃除サボるなよー」
 その言葉とともに、みんなが一斉に立ち上がる。その中……叶絵は、おなかに負担をかけないよう、慎重に慎重に椅子から腰を浮かせた。
(もう……これしかない……)
 叶絵は決断していた。
 ……いや、他の選択肢は全て、実行不可能となって消去されていた。
 結論は……。

(今すぐ一番近いトイレに駆け込むしかない……!)
 もう、あと何秒我慢できるかわからない状態なのだ。それですら、間に合うかどうか自信がない。
 その場合、もちろん扉を閉めなければならないが……きっとできる。そう思うしかなかった。あの時……小学3年の頃よりは、心も強くなっているはずだ。
 礼が終わった後……叶絵は、教室を駆け足で飛び出した。

(お願い……間に合って……)
  ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ……。
 叶絵のおなかは、もう絶えず音を立てる状態にまでなっていた。それは言わずもがな、限界と戦っているこの状態からさらに、便意が増強される予兆である。そうなる前に、トイレに辿り着かないと……。

  グルルルルルルルルッ!!
「うぅぅぅっ!!」
 トイレの入口前で襲ってきた激しい便意に、身体全体を震わせて耐える。
  ゴロロロ……
  ギュルギュル……
  …………

「……っふぅ……」
 かろうじて……かろうじて乗り切った。
 後は、個室に入って、ドアを閉めるだけ……。

 叶絵は……最後にして最大の障壁に向かって、歩を進め始めた。


 ……個室の、中。
 家とは違うトイレ。扉を閉めてからしなければいけない場所。
 便器を跨いで立ち尽くしたまま、叶絵は震えていた。

 おなかの中では、今まで以上の便意が荒れ狂っている。その排泄欲求を本能が汲み取り、扉を閉め下着を下ろしてしゃがみこめと命令を出す。

 そして……過去に脳裏に刻み付けられた記憶から、この場所に長くいてはいけない、扉を閉めてはいけないという命令を、理性が下す。

 その二つの命令が交錯し、彼女の右手は……ガクガクと震えていた。

(だめ……このままじゃ……おもらししちゃう……)
(閉めなきゃ……)
(このわずかな時間だけ、それだけ怖いのを我慢すれば……)
(……閉めるんだっ……!!)
 強い強い意志の力で、拮抗していた心の天秤を無理矢理に傾ける。
 震える彼女の手が、ドアのふちにかけられる。そして、その木の扉を、そっと押して初速度を与える。
 もう、手に力は入らない。手を添えただけの扉が、徐々に外界との隙間を縮めて行く。

 …………………………50cm。
 ……学校のトイレ。
 …………………………40cm。
 ……おなかの中は急降下状態。
 …………………………30cm。
 ……あの時と、同じ――。

  ドクン!!
「……っ!!」
 心臓が灼けるように熱くなる。
 目の前を、抵抗できない真っ暗な感覚……純粋な恐怖感が覆い尽くす。
 その恐怖を遠ざけようと、手が勝手に扉を止めようとする……。

(だめっ!!)
 その手を再び理性で……もはや、何が理性で何が本能なのかわからないが、とにかく止める。閉めなければ、扉を開けたままおもらしという最悪の事態になってしまうのだ。いわば、女の子としての意地が……最後の一線を越えさせた。

 …………………………20cm。
 …………………………10cm。

  トク、トク、トク…………。
 ものすごい早さで、鼓動を刻みつづける心臓。
(大丈夫。大丈夫だから……)
 必死にそう言い聞かせ、ただその時を……扉が閉まる瞬間を待つ。

 ……………5cm。
「あ……あぁ……」
 ……………4cm。
(早く……早くっ……)
 ……………3cm。
 トク、トク、トク、トク…………
 ……………2cm。
 ギュル……ゴロロロロロロロッ……
 ……………1cm。

ジリリリリリリリリリリッ!!
「ひぃぃっ!?」

 びくっと、身体全体が衝撃で跳ね上がる。
 けたたましい音で鳴り響く非常ベル。
 目の前には、その隙間をほんの少しからゼロへと変えようとしている扉。

「だめぇぇぇぇぇぇっ!!」
 叶絵はそう叫んで、寸前で扉の動きを止めた。そのまま勢いよく開け放ち、脚をもつらせながら外に飛び出す。



「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ…………」
 トイレの外。
 階段の前で、叶絵は高まりきった鼓動を必死に押さえていた。

 もう……非常ベルの音は聞こえていない。
(い、今確かに……あの音が……)
 そこへ、クラスメートの永嶋彩子が通りかかった。

「あ……叶絵ちゃん……」
「あやちゃん……い、いま、非常ベル鳴らなかった? ジリリリって」
「う、ううん、別に鳴ってないけど……」
「そ、そう……うぅっ……」
  ギュルゴロロロロロロッ!!
 思い出したように、おなかが激しい音を立て始める。それに合わせて、便意も盛り返してきた。
「か、叶絵ちゃん……大丈夫? 汗びっしょり……顔も真っ青だよ?」
「あ……こ、これは……」
「ほ、保健室行った方がいいんじゃない?」
「う、ううん、そうじゃ……」
 否定しようとして、すぐに思いつく。
「そ、そうだね……ちょっと、ふらふらするから……保健室行ってくる。掃除出られないかもしれないけど……先生に言っておいて」
「う、うん……」
「じゃ、じゃあね!」
 そう叫ぶように言って、階段を駆け下りる。


(どうしたら……どうしたらいいの……)
 結局……心はちっとも強くなってなかった。
 扉を閉めることさえできずに、逃げ出してしまう……。

 こうなったら、残された手段は二つ。
 人が来にくいトイレでドアを開けて排泄するか。
 いつもの体育館裏で全てを出してしまうか。

 押し寄せる下痢便を必死にこらえながら、叶絵は必死に考えをめぐらせた。

(……これしかない……)
 現状取りうる最善の策。たとえ……それがどんなに恥ずかしく、どんなに危険を伴うものであろうとも、それ以上の破滅を避けるためには、その方法を実行するしかないのだ。


「はぁ……はぁ……」
 旧校舎のトイレ。叶絵はやっとの思いで、その前にたどり着いた。

 ――人が来ないことに賭けるしかない。
 押し寄せる便意にかすむ思考回路で出した結論だった。

 とはいえ、何の苦労もなくここまで来られたわけではない。
 すでに、最初に本校舎のトイレに駆け込んだ時に、便意は限界にまで達していたのだ。圧倒的な恐怖感に押され、一度は便意が手を引いたと言っても、あっという間に勢いを増した大波が襲ってくる。
 それを叶絵は……階段で、渡り廊下で……そして、この旧校舎の廊下で……ひたすらに耐え続けた。
 うなりを上げつづけるおなかをさすり、今にも開こうとするおしりの穴を締め付け、上から押さえ……。人目がない場所ではおしりを突き出すような不格好な姿になってまで、必死に便意をこらえきった。

(とにかく……便器のあるところまで……頑張るんだ……)

 その意地だけを頼りに、叶絵はトイレの中へと向かう。

 ……だが、トイレに近づくにつれて、予想していなかった音が中から聞こえてきた。

  ゴシ、ゴシ……。
(そ、掃除まだ終わってないの……!?)
 そう……まだ中では数人の生徒が、デッキブラシでトイレの床を磨いていた。

(そ、そんなの適当でいいから、早く出てって……!!)
 だが、そんな叶絵の願いが届くはずもなく、中では雑談などしながら掃除が続けられている。

  グギュルルルルルルッ……!!
「あぁぁぁっ……」
 おなかが、最後通告とも言えるうなりを上げる。
 最大級の便意。
 括約筋の締めつけをこじ開け、押さえる指の圧力をはねのけて、この上なく汚い物が下着の中に現れようとしている。

(だめっ!! 出ちゃだめっ!!)
 叶絵はとっさにしゃがみこんだ。指の付け根の、固さと面積を兼ね備えた部分。そこをおしりの穴に押し付け、かかとの真上にしゃがみこむ。

 ひじの力、手首の力……そして上半身にかかる重力まで味方につけ……叶絵は、押し寄せる便意を水際で食い止めた。肛門のすぐ内側に、熱い汚濁が溜まっているのがわかる。

  ギュルルルルルルル……。
  ゴロロロロロロロロロロッ……。
(お、お願い……これ以上はもう……)
 だが……叶絵の願いを裏切るように、さらに肛門の内側からの圧力は高まっていく。

  ププッ!!
「……っ!!」
 何かがはじけた。
 おならか……いや、もしかしたらもう出てしまっているかもしれない。

  ププッ!! プスッ!! ププププッ!!
 便意の激しさに似合わない軽やかな音を立てておならが続く。この分ならさっきのものも空気だけだっただろう……。だが、わずかこれだけのおならで、辺り一帯が悪臭に包まれる。その本体たるや、どれほどのものだろうか……。

  ギュルルルルルル!!
「!!」
 ぐっと力を込め、続く便意を押さえる。
 熱い流動物が、肛門のすぐ内側でせき止められた。
 さっきのおならと同じつもりで出していたら、今ごろ下着はもとの色を失っていたに違いない。

(漏らす……もんか……)
 脂汗を浮かべながら、必死に耐える。
 永遠とも思える時間。それが、何十分前から続いていることだろうか。
(絶対……絶対我慢するんだ……トイレまでもうすぐなんだから……!!)
 心の中で叫びを上げる。
 
  ギュルクゥゥゥゥゥッ……。
 その叫びに応えるように……便意が勢いを弱めていく。
 おなかからは情けない収縮音。
 肛門のすぐ側まで来ていた便が、度重なる抵抗のために腸の奥へ逆流していったのだ。

(い、今なら……)
 そう思ってトイレの方を見た瞬間、中から出てくる女子の姿が目に入った。

「あ……ごめんなさい。使いたかったら、別に言ってくれてもよかったのに……」
「う、ううん……いいの。気にしないで……」
 心配して声をかけてきた女子……見覚えがないから、たぶん1年生だろうか。その子たちの言葉を遮ってトイレに駆け込む。便意の波をこらえきって楽になっていたのが幸いした。

「…………」
 手前の個室の中。足音が遠ざかって行くのを確認して、叶絵は下着を下ろした。
 崩れるように便器にしゃがみこむ。

(間に合っ……た……)

 緊張ほ解くと同時に……こらえつづけていたものが、彼女のおしりから便器に叩きつけられた。

  ニュルッ……ブチュブチュブチュブチュッ……ビィィィィィィィィッ!!
  ブチュブチュブリリリリリビチィィィィィッ!!
  ビジュブジュブビビビビビビビビビビビビィーーーーーーーーーーッ!!!

 形を保っていたのはほんの先端だけ。その後は、細かい塊が焦げ茶色の液体の中に浮かんだだけの、完全な下痢便だった。
 その奔流が……形を保っていた部分と同じ、数センチの太さで3秒、5秒、10秒と立て続けに噴射された。

 もちろん便器の中にただでは収まってはくれない。落着点で跳ね返り、またすでに便器を埋めた下痢便を跳ね上げ、便器の水面、そして淵までに濃い茶色の水滴を飛び散らせた。

「…………くはぁぁっ……………うぅっ、くっ……」
  ブチュッ……ブチュブチュッ!!
  ブリブチュルッ……ビビッ!!
 すでにおしりの下は一面茶色の海となっている。だが……排泄の全てが終わったわけではない。今までの分が肛門をこじ開けようとしていた直接的な便意の塊……形はほとんど残っていないが……その現れであり、まだおなかが音を立てるたびに送り込まれていた流動物が、腸内にはたっぷり残っているはずなのだ。

「くっ……はっ……」
  ブリュ……ブチュチュッ!!
  ビチ……ブリッ!!
  ブビ……ブビブボボボッ!!
 断続的な排泄。そのたびに、開ききった肛門から痛みと熱さが伝わってくる。

(あの時と……同じだ……)
 下痢。腹痛。お尻の痛み。下痢便の悪臭。
 後々まで影を落とす記憶が作られたあの瞬間と……。

 ジリリリリリリリ……
 再び、頭の中で……あの音が鳴り響く。

 熱い。
 逃げなきゃ。
 ここから逃げなきゃ……。

(違う!)
(ここはあの場所じゃない!)
(今はあの時とは違う!)
(それに、今は逃げようと思えば、開いたドアから――)

 その現実を確信すべく、開け放たれた扉の方向に目を向ける。

 ……人影があった。

「香月……さん……!?」
 顔の輪郭がはっきりしてくる。
 見覚えがある。
 演劇部の後輩……舟崎史音だ。

「あ……ああ……」
 考えうる最悪の事態だった。
 よりによって、知り合いにこの姿を見られるなんて……。
 説明するのさえみじめな姿だ。
 横向きの和式便器にまたがった姿は、驚いた表情からしゃがみこんだ体勢。ほとばしる汚物、便器の中の茶色の海……全てを露わにしてしまう。

 それを……。
 部活の後輩に……。
「あ、あの、これは…………うぅっ!!」
  ビチビチビチビチブブブブブブッ!!
 駆け下ってきた下痢便が、また噴き出してしまう。

「と、とにかくその……その、み、見ないでっ……わ、わけは後で話すから……お願いっ!!」
「は、はい……」
 おびえたように数歩後ずさり、入口の方に消えようとする史音。

 ……だが、数秒後。
「す、すみません……私もあの、我慢できなくて……すみませんっ!!」
 そう言い残して、史音は隣の個室に駆け込んだ。

 直後、ものすごい排泄音が響き渡る。
 叶絵のそれよりは短かったが、あの細身の身体からは想像できない汚らしい音だった。

(そっか……史音もおなかを……)

 もしかしたら……最悪の事態は免れたかもしれない。
 顔見知りに見られるという恥ずかしさは拭いようがないが、史音は真面目な上に気弱だから、誰かに言いふらす可能性は皆無に等しい。
 今日のことはお互い様ということで、水に流すことにすれば……。
(よし、その路線で行こう……)
 そうなれば、あとはおなかの中の老廃物を出してしまうだけだ。

「うん……っ……!!」
 ブリブリ……ビチャッ!!
 ブチュルルッ!! ブビビビッ!!
 ブリブプリュッ!! ブジュルッ!!
 ブリュブブブブピュッ!! ブリリリブビビッ!!

 ………。
 やっと……楽になった。
 おなかの中に何も残っていない、そんな感覚。
(あの時とは違う……)
 あの時は、出しても出しても痛みが治まらなくて……家に帰ってからも、下痢が続いて……それに比べれば、一度だけで治まるのなら、軽い食中り程度のものだ。

(……もしかして……)
 落ち着いて考えをめぐらせる。
 ……心当たりは一つしかなかった。
(幸華……帰ったら思いっきり問い詰めてやるんだからっ……)

 おしりの汚れをぬぐって、一度水を流す。
 ひどい下痢だけあって紙を何枚も使ったが、何とか綺麗になった。
 下着を見たが、目立つ汚れはついていない。うっすらと茶色い筋が見えるが、たぶん朝した残りの汚れが、押さえて我慢する過程でついてしまったものだろう。おもらしを避けるための、必要経費みたいなものだ。
 便器のふちに飛んだ下痢便を拭きとって、流そうとする。
「あれ……?」
 さっき流したはずの便器の中が、まだかなり茶色の汚れで満たされている。
(おかしいな……)
 もう一度、レバーを下げる。
  チョロチョロチョロ……
 申し訳程度に水が流れ込み、肉眼で確認できない程度に液体の茶色が薄められる。
「ちょ、ちょっと……なにこれっ……」
 何度もレバーを倒す。だが……結果は同じだった。

「あ、あの……」
 隣の個室から声がかかる。
「そっちの個室……水の流れが弱くて……それに、しばらくしないとまとまった量が流れないんです……」
「な……」
(そういうことは早く言ってよーっ……)
 今までここに限らず、学校のトイレを使ったことがない叶絵に、それを気をつけろというのも無理な話だった。
「何分ぐらい……?」
「10分も待てば大丈夫だったと思いますけど……うぅっ……!!」
 苦しげな声。
「史音……大丈夫?」
「は、はい……もうすぐ出られますから……」
「あ、い、いい。無理しなくていいから……」
 あと10分くらいは出て来ないでいいよ……そう思いながら、叶絵は外から、入っていた個室の扉を閉めた。


「すみません、お待たせして……」
「ごめん……驚いたでしょ」
「はい……でも、どうして……」
「……聞きたい?」
「話したくないなら、無理にとはいいませんけど……」
 できるなら話したくはないが……事ここに至っては、話さないわけにはいかない。
「聞いても、笑わないでね」
「そ、それはもちろん……」
「…………じゃあ……」

 そう言って、叶絵は口を開いた。


 小学校3年になったばかりのある日。

 朝からおなかをこわしていた叶絵は、家のトイレにこもったまま出られなくなってしまった。
 1時間もするとなんとか回復し、おなかの痛みも治まったので、遅刻扱いで学校に行くことにした。
 しかし、教室に入り授業が始まった瞬間、再び腹痛と便意が襲ってきた。
 30分以上の間必死に我慢して、休み時間になると同時にトイレに駆け込み、水気たっぷりの下痢便を吐き出していた。

 その時に……校舎内の非常ベルが一斉に鳴り響いたのである。
 もちろんその音は、トイレの中にまで……密室なだけに、反響も伴ってものすごい音量で響きつづけた。
 校舎から避難せよとの合図。
 しかし、避難しようにも出続ける下痢便、治まらない腹痛、震える脚が、それを許してくれない。

 やがて、熱を持った白煙が、個室の上下の隙間から入り込んできた。その熱が、むせ返るような悪臭をさらに増幅し、思考をぼやけさせていく。意識が薄くなっていくのがわかる。
 でも……下痢は止まらない。
 せめてこの息苦しさから逃れようと、鍵を開け、ドアを開け放った……そこで、意識が途切れた。


 目覚めたのは保健室のベッドの上。
 そこで、事実を聞かされた。
 今日行われた避難訓練。
 その事実自体は朝から知らされていて、朝の連絡を聞いていなかった叶絵だけに伝わっていなかったということ。
 突発事態に対応する訓練として、事前放送なしでの非常ベルと避難命令を流したこと。
 そして、焚かれた煙が訓練用のスモークだったということ。

 そう聞けば、なんだと思うような、そんな話かもしれない。
 しかし……幼い少女の心の、奥底に刻まれた記憶は、それだけの言葉で消し去れるものではなかった。

 翌日……いや、その日、家に帰ってトイレに入ろうとしたその時から、叶絵は、自らの心に刻まれた、「閉所恐怖症」……いや、「個室恐怖症」と言った方が正しいか。女の子としては……いや、それでなくてもあまりにも重いハンディキャップを自覚することになる。
 叶絵はその時から……その心の傷とともに生きて行く運命を、背負わされてしまったのである……。


「……笑い話でしょ? おかしかったら、笑っていいんだよ?」
 叶絵が自嘲気味に言う。
 最初は妹にさえ馬鹿にされたのだ。何の責任もない他人なら、鼻で笑って当然の話だった。
 避難訓練の連絡を下痢で聞き逃して、その非常ベルの音で恐怖症に……。言葉を並べるだけで情けなくなってくる。

「そんなこと……そんなことないです……」
「だから、気を使わなくっても……少しくらい文句言ってくれた方が、あたしも気が楽だし……」


「だって……だって私は……」
「え……」

 この直後……叶絵は一つの事実を思い知ることになる。
 自分よりはるかに不幸な女の子が、目の前にいるという事実を――。


To be continued...


あとがき

 長らくお待たせしました。
 つぼみたちの輝き第7話、香月叶絵編をお送りいたしました。
 久しぶりになりましたが、感想はいかがでしょうか。相変わらず長いというお叱りは甘んじて受けますけど。
 
 そうそう、ご指摘を受けましたので説明しておきますが、「どろじん」というのは鬼ごっこの亜種で、警察チームと泥棒チームに分かれて、泥棒チームは捕まったら牢屋行きで、捕まってない仲間がくれば助けてもらえるというものです。「けいどろ」「探偵」など地域によって呼び方が完全に異なるようなので、一応ご説明まで。  
 さて、キャラ設定の中で、最も満を持して送り出しますのがこの香月叶絵さんです。
 最初からキャラの過去のトラウマまで考えてたのは後にも先にもこの子だけです(ひかりは思いっきり後付けです)。立場的にも、すでに人気のある幸華の姉であり、かつ主人公隆君の話し相手、かつ特別な感情もない振りをしているだけ、と、いくらでも話に絡める立場にいます。現状では幼なじみの美典ちゃんより目立ってますね。
 これからも活躍してもらうと思いますが、今回はまだまだ紹介話なので、この辺にとどめさせていただきます。

 本来なら今回で叶絵さんの秘密を語り尽くす予定だったんですが、長くなりそうなので次回の修学旅行編に回すことにしました。史音編に向けていい感じでつながりますしね。その時は、叶絵ちゃんが「女の子」になりきれない理由まで語れると思います。

 あ、修学旅行っていうとあらぬ期待を抱いてしまう方がおられるかもしれませんが……まあ、その時になってのお楽しみ、ということにしておきましょう。まあ、2年後に変わらず京都で修学旅行やってるので、その辺からある程度予想はできると思いますが。

 さて、では次回予告を。

 真面目な眼鏡っ子図書委員、舟崎史音。
 性格は内気で引っ込み思案、でも、勉強や仕事など、やる時はちゃんとやるしっかりもの。
 細身の身体をおして働くその様は、まさに健気という言葉そのもの。
 その性格が形作られた理由……。
 それは、彼女が送ってきた、苦労続きの毎日のためだった……。

 つぼみたちの輝き Story.8「冷たい静寂の中で」。
 ほんの少しでも、報われてほしい。
 誰もにそう思われる女の子……それが、舟崎史音である。


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