つぼみたちの輝き Story.4

「純白に秘めた想い」



白宮 純子(しろみや じゅんこ)
 14歳  桜ヶ丘中学校3年2組
体型 身長:155cm 体重:45kg 3サイズ:82-52-84


 まっすぐに伸ばしたさらさらの黒髪に、落ち着いた整った顔立ち。
 性格も分け隔てなく優しく、能力も成績学年1位にバレー部キャプテンと完璧。
 学年・性別を越えた桜ヶ丘のNo.1アイドルである。



「はーい、それじゃ廊下側の列からくじを引いて!」
 担任の高屋先生が大きな声で教室中の生徒に言う。

 中間試験が終わったので、席替えをするのだという。
(席替え…………)
 その言葉に反応した女子が、一人。

 3年2組出席番号27番、白宮純子。
 クラスや番号は知らなくても、顔と名前は学校中の全生徒が知っている。
 流れるような黒髪に、幼さを残しながらも気品を感じる顔立ち。道端ですれ違っただけでも、一日中忘れられないほどの印象を残すだろう。

 そんな彼女が向けた視線の先には、男子生徒が一人。
「………………」
 3年2組出席番号16番、早坂隆。
 平均より少し高い程度の身長はさほど目立つわけでもない。運動部とはいっても、さほど筋肉質でもなく、髪型も普通の短髪だ。性格は不真面目というわけではないが、万事気が抜けがちで、成績も試験の点数にして純子の半分程度しかない。
 ただ、そんな彼が、こと野球のこととなると豹変する。今まで人数すら揃わないほどだった弱小の桜ヶ丘野球部を、大会に出て戦えるレベルまで引き上げたのは、ひとえに彼のがんばりのおかげだろう。

 一緒のクラスになった、2年生の時の球技大会。早々とバレーで優勝を決めた純子が外に出ると、野球の決勝戦。ちょうど隆が打席に入るところだった。ボール球を微動だにせず見逃し、ノースリーから振り抜いた打球は、外野の頭を越すランニングホームラン。
 あの時の真剣な表情、そしてホームインした瞬間の笑顔。その強い印象は、わずか数ヶ月の間に好意に、憧れに、恋愛感情に変わっていった。
 隆の表情一つ、言葉一つまで、純子は鮮明に覚えている。覚えているどころか、毎日のように頭に浮かんでくる……。
「ふぅ…………」
 しかし……それだけだった。
 純子自身、桜ヶ丘のアイドルと呼ばれているのはわかっている。でも、だからと言って全員が告白したりラブレターを送ってくるわけでもない。それどころか、一挙手一投足が噂になる立場は、自分から行動を起こすには障害ですらある。
 彼に嫌われているとは思わない。朝や夕方、部活で会えばきちんと挨拶はするし、教室で話し掛ければ、言葉に詰まる純子を相手になんとか話をしてくれる。だが、それ以上……ただのクラスメート以上の関係に踏み出すには、純子はあまりにも純情な女の子でありすぎた。
 地方ということもあって小中学校とも公立で通してきているが、仕事や勉強以外で男子と話したことはほとんどない。女子の友達が何度か家に来てくれたことはあるが、外で遊んだ記憶なども皆無である。放課後と言えば、学校で部活をするか、家で習い事をするかのどちらか。文字通りの箱入り娘の純子に、男子へのアプローチなどは疎遠すぎる言葉であった。

 野球一筋な隆の性格から考えて、彼が積極的に女の子とつきあおうと思うはずはない。かといって、純子から告白などできるはずもない。
 このままでは、いつまでも平行線が続いていく。たとえば席が隣同士になるとか言った後押しがあれば、状況は変わるかもしれないのだが……。

「……白宮さん、早くくじを引きなさい」
「え……あ、す、すみません!!」
 反射的に、先生が持っていたくじの袋に手を入れ、その一つをつかみ出す。
(もうちょっとよく選べばよかった……)
 ……いつもは、早坂君の隣になれますように……と、そう思いながら選んでいたのだが……今回に至っては、その余裕はなかった。
「………ふぅ……」
(私なんて……全然完璧な女の子なんかじゃ……)
 純子の口から、何度目かわからないため息がもれた。

「じゃあ、引いた番号の席に移動してね。机はまだ動かさなくていいから」
 先生の言葉とともに、教室中の生徒が動き出し、ざわめきがあふれる。
 ……そんなざわめきの中、はっきりと聞こえる驚きの言葉があった。
「え……?」
「ええっ……!?」
 廊下側最後列。その隣同士の席の椅子を手で引いたままの格好で、固まっている二人がいる。

 ……早坂隆。そして、白宮純子だった。


「……まさか、白宮さんだったとは思わなかったな……」
「わ、私も……早坂くんの隣なんて……」
 教科書が入った自分の机を動かして、席替えが完了する。
 お互い、顔が赤い。
「えーと……」
「あの……」
 また、言葉に詰まってしまう。
「それじゃ、各班ごとに班長を決めてね」
 先生の言葉。再び、教室にざわめきが戻る。
「班長だってさ……白宮さんだろ、やっぱり」
「ううん。早坂くんだって、野球部で慣れてるでしょ?」
「いや、俺はそういうのあんまり……」
 隆と純子の間にも、会話の流れが戻ってくる。こういった、事務的なことなら普通に話せるのに……。
 
「えーと……第6班は白宮さんでいいのね?」
「あ、はい……」
 純子と隆の譲り合いとなったが、結局他の班員の推薦もあって純子が班長をやることになった。
(早坂くんの前でだけは、普通の女の子でいたいのに……)
 切実な思いだった。
 学園の顔、みんなの理想。そんな肩書きがなければ、もっと自然に話すこともできると思う。でも、みんなが寄せてくれる期待を無にはできない。だから、どうしても隆との間に距離を置いてしまうのだ。


 次の授業は英語。純子は、予習済みの部分の日本語訳を聞きながら、真横に視線を送っていた。
(もっと、がんばってお話しなきゃ……)
 そう決意する。せっかく、1年越しの念願がかなって、隣同士の席になれたのだ。こんな機会は、卒業まで二度と巡って来ないだろう。
「…………」
 横では、隆が必死にノートを取っている。
 野球の練習で疲れ果てて、家に帰っても勉強をする余裕もなく眠ってしまうらしい。もちろん、同じ条件で学年一位をとっている純子と比べたら怠け者に過ぎないかもしれないが、だからといって投げ出さず授業で取り返そうとするところに、純子はさらなる好感を覚える。
(勉強の話とかでもいいのかも……)
 それなら、言葉に悩むこともなく、いくらかは普通に話せるだろう。休み時間などにいっしょに勉強できれば、それだけで幸せだ。そのうち、おすすめの本を教えたり、それを貸し借りしたり……。
「……白宮さん」
 そうすれば、こうやっていつも彼の声を……。
「白宮さんっ」
「え……っ?」
 幻ではない。真横の席に座る隆が、純子のほうを向いて現実に声をかけていた。
「……白宮、次の部分の訳を当てたんだが」
 先生の声。
「え……あ、はいっ!!」
 純子は、急いで教科書とノートをめくり始めた。


(この授業が終わったら、早坂くんと勉強の話をしよう……)
 そう決めていた。
 授業はあと5分。まもなく終わる。そうすれば……。

「………!?」
 ……突然、身体に感じる違和感。
 下腹部のあたりが、じわじわと熱くなってくる。
 ……尿意だった。
(こ、こんな時に……せっかく、早坂くんと……)
 授業が終わったら話そうと思っていたのに……。
(次の授業まで我慢…………)
 とっさにそう考え、膀胱の感覚と相談する。
(我慢…………できない……きっと……)
 今の感じでは、それほど切迫してはいない。特に水分を多く取っていたわけでもないし、普通だったらあと1時間くらいは問題はなさそうに思える。
 ……そう、普通だったら。


 小学校6年生の時だった。
 純子は、高熱を出して学校を1週間休んだ。
 病名は小児麻痺。
 ワクチンによる予防が確立され、日本では根絶されたはずの感染症だった。
 国際的な付き合いも多い名家の環境、そして箱入りゆえの免疫力の低さ、それらのどこかに原因があったのかもしれない。

 幸い、24時間かかりきりの医者の治療により、一命は取り留めた。
 だが、脊髄にまで炎症を起こすほどの高熱は、彼女の身体に小さな後遺症を残した。
 特定の筋肉への神経伝達が阻害される、運動神経障害である。
 とはいえ、影響が出た部位は重要な四肢ではなく、歩行、手作業はもとより、負荷のかかるスポーツなどにも影響はない。現に彼女は、バレー部のキャプテンとして県の優秀選手にも選ばれている。
 また、脳自体にも後遺症はなく、思考、感覚などに不都合は一切生じていない。だから、その後遺症は、小学校時代からそうだった純子の完璧さを何一つ損なうものではなかった。
 いや、後遺症があることにすら、周りの人間は気付いていない。クラスメートはもちろん、両親、担当した医師でさえも。
 だが……それは、後遺症が純子に何も影響を及ぼしていないからではない。その後遺症は、純子の日常生活に大きな障害をもたらしている。ただ、彼女自身がそれを……肉親にさえもひた隠しにしているからである。

 医師にさえ話していないので彼女は知らないことだが、実際にはその症状は医学的に定義されている。
 「神経不全性括約筋機能障害」。
 排泄物の出口である尿道口、肛門の筋肉である括約筋を、脳の命令通りに動かすことができなくなる症状である。
 それは言い換えれば、尿意、便意を我慢することが困難だということである。


(……授業が終わったら、すぐにお手洗いに行かないと……)
 だから、純子は排泄欲求を感じた場合、可能な限り早くトイレに行き、それを処理しなければならない。括約筋が全く機能しないわけではないが、その力は通常の女子に比べあまりに弱い。
 普通の女子……以前の純子にもできたことだが、「もれそうだけど我慢する」ということが、今の純子にはできなくなっている。「もれそう」と感じた瞬間にはもう出てしまっているのだ。
 不幸中の幸いなのは、もよおす回数が多い尿意の方は、いくらかの我慢がきくことであった。同じ括約筋でも、尿道口と肛門にはそれぞれ別の神経が走っている。その損傷の具合がいくらか違ったのだろう。今程度の尿意なら、少なくともあと30分はもらす心配はなかった。
 だが、便意をもよおした場合はどうしようもない。おなかの具合にもよるが、保って10分程度。あっという間に限界を迎え、下着の中に茶色いものを生み出してしまう。下痢などしたらさらに悲惨で、文字通り流れ出すものが止まらなくなってしまう。

 だが彼女は、それを必死に隠し通していた。動かない括約筋を必死に締め付け、大きい方の場合はおしりの上から押さえつける。もちろん、人目もあってそういう体勢が取れずにもらしてしまうことも多々あったが、気付かれる前にトイレに駆け込んでいる。においが外に洩れないようにブルマを重ね履きしているし、多少臭っても、まさか彼女がおもらしをしているなどと思うものはいなかった。
 だから、純子は今でも学校中のアイドルでいられる。もちろん、おもらしをするたびに彼女自身は死にたいほどの恥ずかしさと情けなさで一杯になる。それでも、こんな自分をみんなは慕ってくれている……。そういう負い目も、彼女に好きな男子のことよりみんなからの評判を意識させる一因であった。

「…………」
(うぅっ……普通に……普通にしてなきゃ……早坂くんに……)
 横の机を気にしながら、必死に尿意をこらえる。他の子ならこの程度の尿意は澄ました顔で我慢できるのだろうが、彼女の場合はそれさえも全神経の集中が必要である。
 隣同士の席になれたのは幸せだが、授業中にこんな必死の戦いを繰り広げねばならない純子にとっては、それは諸刃の剣でもあった。一度集中を切らしたら、一番知られたくない相手に、自分の恥ずかしい姿をさらしてしまう。
(おねがい……気付かないで……)
 純子は足をぴったりと閉じ、上半身では平静を装って、隆の視線を気にしながら我慢を続けた。

「礼! 着席!」
 授業が終わる。
(お手洗いに行かなきゃ……)
 膀胱におしっこが溜まっているのがわかる。彼女にとっての限界は近かった。
「あ、白宮さん……」
「えっ……!?」
「今の授業さ……予習のノート、見せてくれないか? わかんない単語ばっかりでさ」
「え……あ……」
(ど、どうしよう、こんなときに……)
 授業中思い描いていた展開。純子が勇気を出すまでもなく、隆から話し掛けてきてくれた。ここで、ノートを見せて、いろいろ説明して……。でも、そんなことをしていて休み時間が終わってしまったら……。
(だめ……それだけはだめ……)
「ご、ごめんなさい……私、ちょっと生徒会室に行かなきゃいけなくて……帰ったらすぐ教えてあげるから……」
「え……あ、ああ」
「ごめんなさい……それじゃ」
「ああ……」
 呆けている隆を残し、純子は教室を飛び出した。

(どうして、こんなことに……)
 トイレへ急ぐ。もともと力を入れての締め付けがままならないので、走ってもさほど影響はない。
(せっかく、早坂くんから話し掛けてくれたのに……)
 自分が尿意一つ我慢できないせいで……せっかくの機会を無駄にしてしまった。それが何より情けなかった。
 トイレのドアを開ける。
 個室に入ってドアを閉め、ブルマとショーツを下ろしながらしゃがむ。
 そして……膀胱にわずかな力を加える。

  シュィィィィィィ……ピシャピシャピシャッ!!

 ほとんど色づいていない、わずかに白くにごっただけの水流が、彼女のかすかな茂りの内側からあふれだした。
「んっ……」
  チョロロロロロロロッ……。
 我慢の度合い、有無に関わらず、排泄欲求の解放は多少の快感を伴う。
 小水を排泄しているその間だけ、彼女は自分への嫌悪を忘れることができた。


「はぁ……」
 楽になった身体とは逆に重くなった気持ちを抱えて、純子は教室に戻った。
「……あ……」
 まず目をやった隆の席。その横に立ち、彼と仲良さそうに話している女子が一人。
「そっか、香月は3バカトリオと一緒の班か」
「え……? 3バカって、木下君と松平君と、あと隆君のことじゃなかったっけ?」
「な、何で俺になるんだっ!」
「だって、中間試験の補修者リスト、隆君の名前載ってたし」
「う……それはそうだが……って、3バカのあと一人は俺じゃなくて司馬の奴だよっ!」
「そう……それじゃ、4バカに改名かな?」
「だーかーらっ! 俺はあいつらと違って授業中にマンガ読んでたりしないだろっ!」
「あれ? 一昨日まであたしの隣でボールの握りを試してたのは誰かな?」
「う……それなら、おまえだって授業中に台本読んでただろ。しかも、小声でつぶやいててさ。ちゃんと聞こえてたんだからな」
「ちぇっ……バレてたかぁ……」
 そう言って、彼女がふっと微笑む。それに合わせて、隆の方もニヤリと笑みを浮かべる。

「…………」
(私と話しているときとは別人みたい……)
 純子は、流れるようなその会話に踏み込めず、席につくこともできず、教室の入口からじっと眺めているしかなかった。

 隆と話しているのは、クラスメートの香月叶絵。昨日まで隆の隣の席に座っていた女子だ。
 純子ほどではないが長い髪を、首の後ろで無造作に一本に束ねている。同期十数人の中から選ばれた演劇部の部長であり、一度舞台に立てば主役の男役を並の男子以上の迫力でこなす。つかみ所がない普段の態度とは大違いだ。純子も一度舞台を見たことがあるが、初めは普段の彼女と同一人物とは思えなかったほどだ。
 飾らない外見に中性的な言葉遣いとあって、男子とも女子とも違和感なく話している。だが、親しい友達はさほど多くない。男女両方を含めても、一番仲がいいのは隆なのではなかろうか。

(呼び方だって……話し方だって……)
 叶絵の方は、他の男子を苗字で呼んでいるのに、彼だけは「隆君」だ。
 隆も叶絵のことを「香月」と呼び捨てにしているが、どう見ても悪意からの呼び捨てには思えない。それに比べたら、純子につけられる「さん」という敬称は、一定の距離を置くものでしかない。さらに距離の短い「おまえ」と呼ばれた経験など、純子には一度もなかった。
 その二人の関係が、恋愛とはかけ離れた友情だとわかってはいても、どうしても純子は不安になってしまう。
(………………)
「…………どうしたの、純子ちゃん?」
「え…………あ……美典さん……」
 廊下から声をかけてきたのは、淡倉美典。隆の幼なじみであり野球部のマネージャー。純子とは、1年のとき同じクラスだったこともあって、数少ない名前で呼び合える仲の友人である。純子自身、隆のことを趣味から性格からいろいろ知っているが、そのほとんどは直接知ったのではなく、美典から聞いた話である。
「……あれ、席替えしたの?」
「……うん。今日の1時間目にね」
「そっか。たかちゃん、昨日まで前のほうにいたから。……で、純子ちゃんの席はどこ?」
「あ……そ、その…………早坂君の……隣……」
「えっ!?」
「………………」
 その事実を言っただけなのに、顔が真っ赤になる。
「そう……いいなぁ。わたしなんて今まで、たかちゃんと一緒のクラスになったこともないんだよ?」
「え……そ、そうだったの?」
 幼稚園からずっと一緒だと聞いているから、学校でもずっと一緒だったと思っていたのに。純子には、意外極まりない話だった。
「ほら、わたしってくじ運とかよくないし……」
 そう言って自嘲する。確かに、くじ運に限らず美典は運が悪い。傘を忘れた時に限って雨が降ったり、そんな些細なことだが……。小中9年間、少なくとも5回はあったクラス割りで一度も同じになれなかったというのも、わかる気はする。
「そう……ごめんなさい……」
「純子ちゃんが謝ることないって。たかちゃんと仲良くしてね」
「う、うん……頑張ってみるわ」
 ちょっとだけ赤くなった顔で、そう答える。
「うん。がんばってね。じゃあ」
 そう言って、美典は純子の背中をポン、と押した。

「あ……白宮さん」
 その姿に気付いた隆が、純子と目を合わせてつぶやく。
「は、早坂くん……あの、さっきはごめんなさい……」
「いや、別に……こっちが無理なお願いしてるだけなんだし」
「……あららら。あたしはお邪魔だったかな?」
 そう言って、叶絵が一歩距離を取る。
「う、ううん、別に……私の椅子、座っててくれてもよかったのに……」
「そんなわけにいかないって。それに、隆君の横も疲れたしね」
「おい……」
「白宮さん、授業中に寝てたらガツンって起こしてあげてね? 特に朝練の後の1時間目なんか狙い目だよ」
「大きなお世話だ。ほらほら疲れたんならさっさと新しい席にもどれよ」
「じゃ、そうさせてもらおうかな。……またね」
「……ちっ……最後まで口の減らないやつ……」
「………………」
 やっぱり、声が出なくなってしまう。
 ……自分には、ここまで自然に隆と話ができるようになる自信はない。
 二人は友達以上かも知れないけど、決して恋人同士じゃない。それはわかっている。でも……。

「あ……ご、ごめん、白宮さん」
「う、ううん、私の方こそ……あ、こ、これさっきの英語の――」
 キーンコーン……
「あ……」
 ぎこちなくも始まった二人の会話を、授業開始のチャイムが遮った。


「………………」
「………」
 2時間目、3時間目……音楽室で離れる4時間目を挟んで、向かい合って食べる給食……。
 その間、ついぞ二人の間に会話らしい会話は生まれなかった。
 給食を食べる間も、純子は思いつめたように下を向いたまま……。その姿に隆も声をかけられないまま……。
 そのまま、給食の時間が終わる。給食当番の純子は、配膳具を給食室に片づけに行く。

「はぁ……」
 口に出しても心の中でも、何度ため息をついたことだろうか。
 意識すれば意識するほど、言葉が出てこなくなってしまう。授業中に思い浮かべた「予行練習」では、話したいことがいくらでも浮かんでくるのに……。
「…………」
 重い気持ちのまま教室に戻る。

「……え?」
 みんなが昼休みを楽しみに出て行った教室……。
 そこに一人……自分の席の横で、隆が座って待っていた。
「白宮さん」
「は、はいっ……」
 つい声が裏返ってしまう。
「……さっきの続きを、教えてくれないかな?」
「え……?」
 チャイムに遮られた、英語の授業の話。
「………………」
「いや、忙しかったらいいんだけど……せっかく隣の席になったのに、話もできなかったし……あ、昼休みだと関係ないか……」
 自分でツッコミを入れる隆。それに笑うことこそなかったが、純子の緊張をほぐすには十分だった。
「う、ううん、忙しくなんてないし……私からお願いするわ」
 その言葉に、ぱっと隆の顔が明るくなった。

「そっか……さすがに白宮さんは目の付け所が違うな」
「私も最初は、ここでつまづいたの。なのにどんどん内容が進んでしまうから、余計わからなくなって……少し戻って、わかることからやり直すことも大切だと思うわ」
「サンキュ。こりゃ夏休みは総復習だな……」
「ふふ……私も、大会が終わったらそうなるわ、きっと……」
「でも、白宮さんでもわからなくなったりすることってあるんだな……意外だったよ」
「誰だって、初めから全部わかるわけじゃないもの。間違ったことを残さないことが大事だと思うわ」
「そっか……」

 ……最初の一言だけだった。
 あとは、いくらでも言葉が出てきた。
 授業中の予行練習が役に立たなくなるくらい、たくさんの言葉が……。

「あ……そういえばさ、俺の妹がバレー部に入ったんだけど……知ってる?」
「あ……うん。早坂ひかりさんでしょう?」
「ああ。……できたら、仲良くしてやってくれるか?」
「もちろん、そのつもりよ。まだちゃんと練習には出てないけど、真面目でやる気のある子だし……」
 そこまで言って、ふとあることに思い当たる。

「……あの、早坂くん……」
「……ん…なに?」
「ひかりさん……どこか身体でも悪いの?」
「あ……」
 隆が、わずかに目をそらす。
「確かに、そんなに丈夫そうには見えないけど……すごく思いつめた表情で、『もしかしたら、時々休んでしまうかもかもしれませんけど』とか言ってて……ちょっと心配で……」
「………そっか……」
 少し、考える素振りを見せる隆。
「ひかりは……それ以上何か言ったのか?」
「う、ううん、それだけ……」
「そうか……」
 ………。
 また無言。さっきとはまた違った重い雰囲気が、二人を包む。
「ひかりが言わないんだったら、俺の口からはそれ以上は言えないよ……」
「そう……」
「ただ……さ。ひかりの様子がおかしかったら、すぐに練習止めさせて、俺を呼びに来てくれないか?」
「え……」
「あいつ……結構無理するところがあってさ。誰かが止めてやらなきゃいけないんだ」
「う、うん……わかったわ」
 ……それで、ひかりについての話は終わる。
 はっきりとはわからないが、思ったより深刻そうな話だった。
(気をつけて見守ってあげないと……)
 今の純子が考えられるのは、それだけだった。

「それで…………あ……」
  キュッ……。
 下腹部がきゅっと縮む感覚……。
(また……)
「……どうしたの、白宮さん?」
「え……う、ううん、なんでもない」

(どうしてこんな時に限って……)
 隆と普通に話せるようになった矢先。
 そんなタイミングで、純子は再び尿意をもよおしてしまった。
(あんまり、水分は取らないようにしてたのに……給食の牛乳が……)
 200ml、残さずに飲んでしまった。隆の目の前で残すのも格好悪いという思いが、逆に仇となってしまった……。あっという間に、尿意が高まってくる。

「……っ!!」
 このままじゃ、すぐ限界になってしまう。純子は息を詰まらせながら立ち上がった。
「……白宮さん?」
「え……あ……」
 目の前からかけられた隆の声。
(どうしよう……生徒会室にって言い訳はさっき使ってしまったし……)
「その……ごめんなさい、先生に呼ばれてたの……バレー部の練習のことで」
「そ、そうか……ごめん、慌ててたみたいだから、どうしたのかって思ってさ」
「ご……ごめんなさい。今、ひかりさんの話をしてて思い出したの。早坂くんのおかげね」
「い、いや別に……それより、早く行ったほうがいいんじゃ?」
「う、うん……ごめんなさい」
 言い残して、席を立つ。


 教室を飛び出し、早足でトイレに駆け込む。

「うぅっ……っ!!」
  プシャァァァァァァァァァァッ!
 個室に入って下着を下ろすと、汚れ一つない秘部から金色の水流が流れ出す。
 かなりの勢い……あと数分遅れていたら危なかった。

 なんとか……間に合いはした。
 だが、そのことがまた、純子の気持ちを沈ませる。
(私……私…………最低だわ……)
 トイレが我慢できずに、嘘までついて逃げ出してしまう。せっかく話せるようになったばかりなのに、また……。
(こんなこと早坂くんに知られたら……私……)
 放尿の跡を拭いながら、純子は言うことを聞かない自分の身体を恨みつづけた。


「はぁ……」
 学校の屋上。
 あんなことのあとで、教室にそのまま戻ることはできない。
 かといって生徒会室や職員室に本当の用事などない。
 ……行き場がなくやってきた場所は、人もまばらな屋上だった。
「あ……白宮先輩だー!」
「先輩ーっ!!」
 目ざとく彼女を見つけた後輩の女子たちが、手を振ってくる。
「…………」
 笑顔を作って、小さく手を振り返す。
 ……どこからどう見てもわかる、作り笑い。

(……私なんて、全然アイドルなんかじゃない……)
(情けなくて汚らしい、女の子であることすら許されない最低の人間……)
(早坂くんにだって、きっと……)
 どんどん気分が沈んでいく。ここから身を投げ出したら楽になれると、そんな考えすら頭に浮かぶ。
 あの病気をしてから初めて……それは物心ついてから初めてだったが、学校でおもらしをした時も、同じことを思った。

 昼食後に便意をもよおし始めて、昼休みのうちにもらしてしまった。
 それまでは、恥ずかしさのために、午前中に感じ始めた便意を家に帰るまで我慢することも珍しくなかったのに。
 10分もしないうちに、勝手にパンツの中にあふれ始めて……校庭の隅のトイレに駆け込んだときには、どっさりと茶色いものが真っ白な下着と肌を汚し尽くしていた。
 一人きりの個室で汚れたおしりを拭きながら、死にたくなるほど悲しい気持ちで涙を流しつづけた……。

 ……でも、そんなことはできない。死ぬ勇気もなかったし、育ててくれた両親、慕ってくれる友人に申し訳が立たない。せめて迷惑だけはかけないようにしていこうと、それだけを思って今まで過ごしてきた。
 それでも……これからずっと、隆の前でこんな姿をさらしつづけるのかと思うと、絶望以外の気持ちは浮かんでこなかった。

「……そろそろ戻ろう……」
 ここにいても気分が沈むだけだ。まだ午後の授業には間があるが、できるならトイレに行って、わずかな尿意でも解放してしまっておきたい。
 ……そんな涙ぐましい努力をしてなお、彼女は精一杯の我慢を、そして恥ずかしいおもらしを強いられることも少なくないのだが……。
「あ……徳山さん……」
 屋上の入口で、背の高い女子とすれ違う。

 徳山御琴。すらりと伸びた長身に、中学生とは思えない発育のよさ。モデルになってもおかしくない体型だ。真後ろで結んだポニーテールも、可憐、活発というより、気丈という言葉を連想させる。事実、部長を務める陸上部では、一部の女子からも「お姉さま」と慕われているという。
「あら……白宮さん」
 純子も決して小さいほうではないが、それでも一回り違う視線の高さ。見下ろすような視線は、その言葉をもいくぶん冷たく感じさせる。
「こんな屋上にわざわざ。どうなさったのかしら?」
 しゃべり方だけを聞けば、純子などよりよほどお嬢様に思えるだろう。家庭の詳しい話は聞いたことがないが、もしかするとどこかの豪邸に住んでいるのかもしれない。
「え……別に……ちょっと、気分転換に……」
 目的は果たせなかったが。純子はとりあえず、無難な答えを返す。
「徳山さんは?」
「わたくし? そうね、高いところにいると落ち着くの。白宮さん、あなたも人の上に立つ人間でしょう? 同じ気持ちではなくて?」
「……私は……別にそんな……」
 人の上に立つなんて思ったこともない。嫌われないだけで精一杯だった。謙遜などではなく、紛れもない本心。
「そう……まあいいわ。それでは、ごきげんよう」
 そう言って、屋上の端の方へ去っていく。……確かに、あのあたりからだと校庭が一望できる。純子にとっては、そんな光景を見ても心が沈むだけだが……。

「ふぅ……」
 校舎への階段を下りながら、ため息をつく。
(……やっぱり、あの人は苦手……)
 積極的に嫌うつもりはないのだが、どうしても好感を持つことができない。実際に美人なのは確かだし、陸上部での活躍も聞いている。でも、あの人を見下す態度だけはどうしても……。
(……いけない、今は……)
 今は人を嫌いになることより、せっかく親しくなる機会を与えられた隆との時間を大切にしなければ。こんな気持ちばっかりでは、彼にさえ嫌われてしまうかもしれない。
(笑顔……見せなくちゃ……)
 必死に心の中を整理する。
 彼の前では普通の女の子でいたい。
 楽しい話をして、笑って……それ以外のことは考えないように。


「……じゃあ、白宮さん、また。校外走で会うかもしれないけど」
「うん。追い抜かれないようにがんばるわ」
「そうだな。……あ、ひかりのこと、よろしく頼むよ」
「うん。わかったわ。……それじゃ」
 そう言って教室を出て、それぞれの部室へと歩き出す。野球部は校庭の隅、バレー部は体育館の脇。
 ……心配していたほどに、二人の会話によどみは生じなかった。隆も、純子の様子をおかしく思う素振りはなかった。もっとも、そんな素振りが見られようものなら、純子のほうが平静を保てなくなっていただろうが……。

「あ……」
 着替え終わって部活に行く途中、まだ制服姿のひかりが目に入る。
「早坂さん」
「あ……白宮先輩、こんにちは」
 小さな身体をくるりと向きかえ、純子に会釈をする。見学の時も思っていたが、本当に礼儀正しい子だ。

「早坂さん……、今日から本練習、大丈夫?」
「あ……はい。大丈夫です。今から、着替えてきます」
「そう、よかったわ……お兄さんに、あなたのことよろしくって言われてるから」
「お兄ちゃんが……そうですか。ごめんなさい、心配かけてしまって…………」
「ううん、心配なんて。……これから、楽しく練習しましょう、ひかりちゃん」
「え……あ、はい…………」
 ひかりが意外そうな顔をする。純子は……すぐその原因に思い当たった。
「あ……ご、ごめんなさい……その、早坂っていうとどうしてもお兄さんの方の印象が強くて……嫌じゃなかったら、名前で呼んでもいい?」
「あ……は、はい……それで……かまわないです」
「ありがとう。それじゃ、あらためてよろしくね、ひかりちゃん」
「はい、先輩……。それじゃ、着替えてきますね」
「うん。体育館で待ってるわ」
 そう言って、部室に駆けて行くひかりを見送って、純子は体育館に入った。

「……1年3組、早坂ひかりです。運動はあまり得意じゃないですけど、がんばって練習して、少しでも上手くなれたらいいなと思ってます。よろしくお願いします」
 ぺこり。
 バレー部とあって長身の者が多い中、ひときわ小さいひかりが頭を下げ、挨拶をする。周りからは温かい拍手が起こっている。
「それでは、さっそく練習を始めましょう。新入部員のみんなも知ってると思いますけど、最初は体力作りとしてランニングからです。学校の外を1周して、体育館の前に集まってください。では、出発!」
 純子の声を合図に、体育着に身を包んだ部員たちが一斉に走りだす。先導は他の3年生に任せ、純子自身は1年生が脱落しないように見守ることにした。


「……大丈夫、ひかりちゃん?」
 案の定というわけではないが、半周ほどすると数名の1年生が遅れだした。その中には、ひかりの姿も含まれていた。
「は、はい……だいじょぶ……です……」
 とは言うものの、息はだいぶ上がっている。
「無理しないで。歩いてもいいから。少し、ペースを落としましょう」
「……だ、だいじょうぶですから……」
「だめよ。無理はさせないでって、早坂くんにも言われてるんだから」
「……わ、わかりました……ごめんなさい……」

 早歩きくらいのペースで、ひかりと純子は体育館の前に戻ってきた。
「ごめんなさい。それじゃ、十分休んだ人から中に入って、ボールを使って練習してください。コートの両側に分かれて、サーブで打ち合ってみましょう。1年生には上級生がついてあげてくださいね」
 指示を出して、ひかりのもとに戻る。
「大丈夫?」
「は……はい……もう、大丈夫です」
「そう。それじゃ、私たちも中に入りましょう。ボールの打ち方、私が教えてあげるから」
「あ……はい。ありがとうございます」
 一緒に中に入る。
 ……別に、隆の妹だから特別扱いしているつもりはない。身体が弱くてもがんばっている姿を見たら、手を差し伸べたくなるのは当たり前だと、そう思うから……。

「まずは基本から。アンダーハンドサーブでボールを飛ばしましょう。こうやって左手にボールを乗せて、腰の真横で打つの!」
  ポーン……
 純子の放ったサーブが、体育館の壁と床の境目で跳ね返る。
「すごい……わたし、あんなに飛ばすの無理です……」
「そうでもないわ。腕を回す勢いを使うの」
「まわす……こうですか……あっ!?」
 ひかりが弾いたボールが、見当違いの方向に転がる。
「あっ……」
 その行方を見て、落ち込むひかり。

「――――――!!」
 演劇部の練習の声が、その間に割り込んでくる。ひときわよく通る声は、きっと部長の叶絵のものだろうか。
「ご、ごめんなさい……」
 その声がやんだあとで、ひかりが謝ってくる。
「無理をしないで。最初は、前に飛ばすことだけ考えて。それから、勢いを少しづつつけていけばいいから」
「は、はい……」

 ぽこーん。
 ぱこーん。
 手前のネットまでも届かない、ヘロヘロした勢いの球。
 しかし着実に、正面に飛ぶようにはなっている。ちゃんと身体で覚えていっているのだ。
「その調子よ。次は……」
 そう言いかけた瞬間。

「――――っ!!」
  ビクリ。
 おなかの奥底に感じる圧迫感。この鈍く重い感触……さっきの尿意とはわけが違う、差し迫った便意だった。
 最後に大きい方をしたのは昨日の夜だったから、もよおしてもおかしくない時間ではある。でも、こんな時に……。まだ休憩にするわけには行かないし……。
「し、白宮先輩、どうかしたんですか?」
「え……う、ううん、なんでもないわ。さあ、次はあのネットまで飛ばしてみて」
 なんとかその場を取り繕う。だが、簡単に離れるわけにはいかない。考えをめぐらす数十秒の間に、彼女の肛門はものすごい速さで陥落へのカウントダウンを進めるのだ。

(だめ……我慢できないっ……)
 考えるまでもなくわかる結論だった。今までに、その結論を何度、身体が実証してしまったことか。
 しかし、自分だけ勝手に休憩するわけにはいかない。いくら自分が部長だと言っても、まだ休憩を出すには早すぎる時間だし……。

(あれしかない……)
 「こんなとき」のために、用意している芝居が一つある。
「ひかりちゃんっ……お手本を見せてあげるから、ボールを貸してくれる?」
「あ……はいっ。おねがい……します」
 ひかりがおずおずとボールを差し出す。
(アンダーハンドではあまりやったことはないんだけど……)
 いつもこの手を使う時は、打ちなれたオーバーハンドでやっている。しかしひかりにお手本として示す以上、こうするしかない。
(正面で開いている窓は……あそこっ!!)
 視線が捉えたその空間に全神経……いや、おしりの穴をのぞいた全神経をを集中し、右脇に構えたボールを打ち込む。

  ビュンッ!!
 ボールはあっという間にネットを越え、放物線を描き……窓の外へと転がっていった。
「すごい……」
「あ……ご、ごめんなさい。私、取ってくるから……」
「い、いえ、球拾いなんてわたしが……っ……」
「ううん、それより練習してて。宮原さん、早坂さんに教えてあげて!」
「はーい!」
 ひかりのことを2年生に頼む。これで……トイレに駆け込むことができる。
「じゃあ、ちょっと待っててね」
「は……は…い……っ……」
 言葉に詰まりながら答えるひかりを置いて、純子は体育館の外へと走りだした。


「くぅぅぅっ!!」
 体育館の中から見えなくなると同時に、おしりを押さえて中腰になる。もう、あと数秒であふれそうなところまで来ていた。あと少しおなかがゆるくなっていたら、今のでももれてしまっただろう。
「はぁ……はぁ……」
 荒い息。何とか、漏れそうな便を押し返すことには成功した。おしりを軽く押さえたまま、体育館の脇にあるトイレへと歩き出す。

  ググググッ……
「だ、だめ……」
 またあふれそうになる便を、片手で押さえる。立ち止まって、必死に耐える。身体がガクガクと震え、肌には汗が浮かぶ。
  ググ…………ッ……
「…………はぁ……はぁ……」
 再びこらえきる。……次はもう、どうなるかわからない。手を離したら、一瞬ですべてがもれ出てしまうだろう。
「…………え?」
 はるかな前方に、制服姿の女子の姿が現れる。体育館の裏に向かって駆けて行く後ろ姿。首の後ろで束ねた長い髪が、風になびく。
(……香月さん?)
 体育館から出てくる制服姿の生徒。それとあの髪型。演劇部の香月叶絵に間違いはない。
(でも、どうして……練習中だし、トイレは方向が逆だし……)
 疑問を浮かべる。
 ……そんな余裕がなかったことに、純子は自らの身体が教えてくれるまで気付かなかった。

  ググググググッ!!
「ひっ!?」
 再び猛烈な勢いで便があふれそうになる。
 必死に手で押さえるが、少しもおさまらない。
(だめ……でちゃうっ!!)
 手で押さえてなお達してしまった限界……純子に残された道は、肛門から便が漏れ出すまでにトイレにたどり着くしかなかった。
 それは、あまりにも分の悪い勝負であった。

 ……決着は、個室ではないトイレ全体の入口……そのドアを開けたところでついた。

  ニュルルルルルルルッ!!
「あ…………っ…………」
 はっきりとわかる、絶望的な感覚。確かな太さと固さを保ったものが、おしりの穴をすごい勢いで通り抜けていく。もちろんその排泄物は、おしりを覆うショーツ、その外をカバーするブルマの圧力の前に、ショーツの中でその形をいびつに歪ませていく。
 前かがみになっておしりを突き出した格好。そのおしりの中央に、ブルマの上からでもはっきりとわかる膨らみが浮かび上がった。
 おしりの皮膚には、生温かい感覚。
 何回、何十回……いや、それ以上繰り返しても決して慣れることのない、おぞましい感覚。

(私……また……おもらしを……)
 今日一日、何度繰り返したかわからない希望と絶望。その中でもっとも深い絶望に、彼女の心は落ち込んでいた。
 だが……この絶望の底は、まだずっと深い。

  ムリュリュリュリュリュッ!! ブニュルルッ!!
「ひっ……」
 ふくらんだブルマの中が、さらに茶色いもので満たされていく。最初に出した分より柔らかいそれは、肛門を出た瞬間に押しつぶされ、おしりの穴を覆うようにショーツの中に広がっていく。
「だ、だめ……」
 排泄が許される場所……個室の中、便器の上へと、一歩づつ歩を進める。だが、締め付けの効かない肛門に意識を集中しての歩行、とてもその速度は早いとは言えない。
  ブボボ……ブニュルルルルッ!!
 前へ後ろへ、下着の中に生温かい感覚を広げながら、彼女は脚を動かすことになった……。

「はぁ……はぁ……」
  ブリュブブブブブッ!!
 何度目かの噴出を感じながら、個室に滑り込む。
 扉を閉め、便器にまたがり……。
「くぅぅぅぅぅっ!!」
  ブリ! ブリュブリュ!!
  ブブブブブブブリュルルルルルルルッ!!
 くぐもったものすごい音を立てて、大量のものをもらしてしまう。もうおしりの下は大便で一杯で、新たに出たうんちはブルマの圧力と戦いながら、その領域を広げていった。
「うぅ……」
 目の淵に涙をきらめかせながらしゃがみこみ、ブルマを静かに下ろす。

 ……ひどい有様だった。
 紺色のブルマの下から現れる、黄土色の軟便。本来そこにあるべき白色と肌色は、汚物の色に完全に覆い尽くされていた。
 ブルマをふとももまで下ろす。……汚れきった肛門が露わになった。その中心はもちろん、周りの肌までもべっとりと同じ色に汚れてしまっている。液状というには水分が足りないそれは、ところどころに角を立たせながら、真っ白だった純子のおしりをべっとりと汚していた。
 脱いだブルマの方もただで済んではいない。ショーツの覆う範囲からはみ出して、ブルマの生地に直にこびりついた軟便。おなかの調子が不安な時は、こうならないよう幅の広い厚手のパンツを重ねておくのだが、これほどゆるいとは予想外だった。その汚れの中央には、形を崩しながらもうねる柔らかいうんち。固さと色の濃さは比例していて、中央には茶色に近い汚れが目立っている。
 ……もっとも、放つ臭いはどちらもとんでもない悪臭だ。空気に触れたそれは、純子のいる個室を容赦なくその臭いで埋め尽くしていく。これが、白宮純子の出したものの臭いだと言ったら、張本人である彼女以外に一体誰が信じるだろうか。
 視線を落とすと、視界一面に広がる茶色。ブルマの中からでもはっきりと聞こえた排泄音。鼻の奥に突き刺さるほどの刺激臭。そして、おしりを覆う生温かい粘着質。

 あらゆる不快な感覚に包まれながら、彼女は便器にしゃがみこみ、おなかに力を入れた。


 ………。
 ………………。
「………………っ……」
 ……出ない。
 …………もう、純子のおなかの中には、出すべきものは残っていなかった。
 すべて……溜まっていた汚物のすべてを、ブルマの中に吐き出してしまったのだ。
「うぅっ……」
 目の縁にたたえられた涙の滴が、その大きさを増す。
 さっきまでは出続けることが苦しく、そして今は出ないことが悔しい。
 わずかに垂れた茶色のかけらだけが散らばる便器が、あまりにも恨めしい。
 そして、排泄物で一杯に満たされたブルマを両足の間に掛けている自分が、何よりも情けない。

「秘められたもの」 (こんな私が……アイドルなんかのわけない……)
(尊敬も賞賛もされなくていい……せめて、普通の女の子になりたい……)
 決して叶えられぬ願いで、頭の中を満たそうとする。
 目の前……いや、両足の間の現実から、目をそらすかのように。


「………………」
 終始、無言だった。
 ブルマの中に溜まった汚物を、便器の中に落とす。
 おしりについた汚れを、肌が傷つくほど強くトイレットペーパーで拭い取る。
 ブルマの生地についた水気の多い汚れを、紙で吸い取る。
 あまりにも恥ずかしいおもらしの後始末の間、彼女は一言も発しなかった。
 口を開いた瞬間、泣き叫ぶ声が止まらなくなりそうだったから。

 不本意な形での排泄とはいえ、軽くなった身体で部室に駆け込み、新しいショーツ、緊急用の厚手パンツととともに、ブルマを履き替える。汚れたものは、ビニール袋に放り込んで口を閉める。……こんな準備を毎日してきている自分がまた情けなくなる。

 とはいえ、悲しみに沈む時間はなかった。おもらしとそのあとの処理で、かなりの時間が経っている。部活に残っているみんなが、部長の不在を不審に思ってもおかしくない。
 休む間もなく、純子は駆け足で体育館に戻る……。

「白宮さん!!」
 入口に現れるなり、部員から声があがる。
「ご、ごめんなさい……その……」
 言い訳をしようとした純子。だが、その言葉は続く叫びによって遮られる。
「白宮さん! 早坂さんがっ!!」
「えっ……」
 体育館の中のみんなが、同じ方向を見ていた。その中心に、数人の輪。
 そのさらに真ん中にうずくまっている小さな身体。
 1年生、早坂ひかり――。
「ひかりちゃん!!」
 純子はそう叫んで、その輪の中心へと駆け寄った。


(私……なんてことを……)
 保健の先生、そしてひかりの兄、野球部の早坂隆を呼んでくるよう部員に指示を出した後、純子はひかりのそばにしゃがみこんだ。
(早坂くんから、教えてもらってたのに……)
 無理をしないように、止めてやってくれと。よろしく頼むと、自分を信頼してくれてたのに。
 それなのに……自分の便意の処理というあまりにも勝手な行動で、その約束すらも守れず……。
(私なんて……最低の人間だわ……)

「うぅぅっ!!」
 ひかりが、苦しげな声を上げる。
「ひかりちゃん! 大丈夫!? しっかりしてっ!!」
 必死に声をかける。顔は真っ青、肌は汗まみれ。身体全体が、離れていてもわかるほどに震えている。
「も……もう……もうだめ……っ……」
「そんなこと言わないでっ! もうすぐ、保健の先生と早坂君が来てくれるからっ!!」
「だめ……もう……」
 苦しげな態度。そのひかりの姿に、ついさっきまでの自分の姿が重なった。
 震える身体。流れ出る汗。そして「もうだめ」という言葉――。

(ひかりちゃん……まさか……)
 純子の頭に一つの確信が、導き出された。
「ひかりちゃん、歩ける!?」
「だ……だめ……」
 かすかに首を振るひかり。
 ……先生が来るのを待ってはいられない。
 …………いや、きっと先生が来ても意味がない。
「ひかりちゃん、もうちょっとだけがんばって!!」
 そう叫んで、ひかりの身体を抱え上げる。細く小さいその身体は、純子の半分程度の体重しかないのではと思わせた。
「うっ……くぅっ……」
 ひかりのうめき声をすぐ近くで聞きながら、純子は体育館の外へと走った。


「はぁ……はぁ……」
 さすがにこの体勢での全力疾走は厳しいものがある。
 外に出ると、グラウンドの方から走ってくる早坂隆の姿が見えた。
「早坂く――――」
 そう、声を出そうとした純子。
 その声は……ひかりの叫びによって遮られた。
「だ、だめぇぇぇぇぇぇぇっ!!」


 純子の腕の中で……ひかりの身体が激しく震えた。

「ひかりっ!!」
「ひかりちゃんっ!!」

 重なる二人の声。
 その思いを込めた叫びの中で、ひかりは――。


To be continued...


あとがき

 遅くなりましたが第4話です。予告通り純子メイン、新キャラ二人を追加して、これで3学年女子12人が勢揃いしたことになります。……真のメインキャラはラストのひかりだという話もありますが、まあそれはそれ。次回への布石ということで。
 とりあえず白宮純子に関しては、おもらし癖ということで落ち着きました。回数だけならひかりと互角の勝負をするスーパーヒロインです。下り具合という点では一歩譲りますが、箱入り娘ゆえの抜群の羞恥心と、アイドルという立場ゆえの葛藤で戦っていただきましょう。
 新キャラ二人については、まだつかみ所がないかと思います。近々、排泄設定以外は公開するつもりですので、その辺も含めて想像を膨らませていただければ。その重要な設定についても、一応この話で伏線は張っております。いろいろ妄想してみてください。

 さて、次までは多少間が空くかもしれませんが、次回予告を。

 健気な妹のひかり。可愛い後輩の百合。そして、清楚可憐な美少女、白宮純子。
 彼女たちに囲まれて、幸せな生活を送っているはずの隆。
 だが、どんどん大きくなっていく一つの気持ちが、彼を悩ませる。
 忘れられない、あの日のひかりの姿。そして今日も――。

 早坂隆の目を通して語られる、彼女たちの新たな姿。
 その真っ直ぐな瞳に映るのは、美しい思い出か、それとも――。

 つぼみたちの輝き Story.5「Face to Face」。
 願わくば、彼の思いがみなさんに伝わりますように……。


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