つぼみたちの輝き Story.3

「水色に包まれて……」


澄沢 百合(すみさわ ゆり)
 13歳  桜ヶ丘中学校2年1組
体型 身長:145cm 体重:39kg 3サイズ:75-49-73


 薄い青色のショートカットが活発な印象をかもし出す、礼儀正しい後輩。
 野球部のマネージャーとしてみんなに人気。


「早坂せんぱーい! 行きますよ!」
 打撃投手用のネットの裏で、体育着姿の少女が腕を振り回す。ソフトボール特有のウィンドミル投法だ。短い髪が風に揺れた次の瞬間には、その右手から勢いよくボールが弾き出される。
 打席で構えるのは、頭一つ分も身長の違う男子。外野には、守備練習兼球拾い役の、練習用ユニフォームに身を包んだ男子が数人散らばっている。まだ小学生気分も抜けきらない1年生だ。

 今日から6月。本格的な夏の始まりとあって、東の空からの陽射しは相当に強い。だが、時間はまだ学校の始業前だ。
 今年初めての、男子野球部の朝練。その打撃練習のマウンドに立つのは、2年生の女子マネージャー、澄沢百合だった。
「アンダースロー投手相手の練習がしたい」
 エースで4番、キャプテンの早坂隆は、新入部員が固まった5月中からそう言っていた。しかし、元よりまともなピッチャーなど彼以外にいない弱小野球部である。そこで手を挙げたのが女子マネージャーの澄沢百合だった。

 よく気がつくし、仕事もてきぱきこなす。おまけに女の子らしい可愛らしさも満点と、とある一点を除いては部員に大人気な彼女。しかし小学校時代は、少年野球チームで男子を差し置いてエースを張るほどのスポーツ少女だったのである。当然、中学に入ったらソフトボール部で……と、下手投げの練習も十分に積んでいた。それゆえの抜擢だった。
 そんな彼女が、なぜ男子野球部のマネージャーを……というのは、男子部員たちがただ一つ不満に思っている、まさにそのことが理由であった。
(早坂せんぱい…………)
 一心にバットを振る隆の姿に、彼女はうっとりと見とれていた。
 そう、百合の頭の中は、一目見た時から早坂隆のことで一杯なのだった。
 今となっては、なぜ好きになったのかもわからない。バットを振り抜いて走り出す姿、ストレートを投げ込む力強いフォーム、そして、ユニフォームを脱いだ時の優しい表情……彼女にとってはすべてがまぶしかった。

 とは言っても、なかなかそれを口に出すことはできない。自分が思っているほど、隆は自分を思ってくれていないだろう……と、それだけはわかってしまう。百合自身は、隆と話す時など顔が真っ赤になってしまうのに、隆の方はうろたえる様子もない。
 彼の態度は、同じマネージャーの3年生、淡倉美典に対しても大して変わらない。もっとも彼女は隆の幼なじみだというから、別の意味で特別なのかもしれないが……。

(先輩、女の子に興味ないのかなぁ……)
 そう思ってしまうのは仕方ないだろう。野球が恋人、と言った方が似合う気がするほどだ。
(でも……そういうところがまた格好良くて……)
 好きな気持ちが、どんどん抑えられなくなっていく。
 今は、一緒にいられるだけ、言葉を交わせるだけで満足しないといけない。
(それでも、夏の大会が終わって、先輩が卒業するまでにはきっと……)
「澄沢! ラスト1球!!」
「あっ……はいっ!!」
 自分だけの世界に入っていた百合を、隆の声が引き戻す。
 百合は一瞬で精神を集中し、低い位置からど真ん中に白球を投げ込む。

  カキィィィィン!!

「……おつかれさまでしたっ!!」
 頭上をはるかに越えていくボールを見送ったあと、百合は隆に駆け寄る。
「ああ。ありがと。だいぶ感覚がつかめてきた」
「どういたしまして。でも先輩……どうして対下手投げの練習なんかを?」
「決まってるじゃないか。高峰中の穂村に勝つためだよ」
「高峰中って……あ、去年練習試合をした……」
「ああ。今度の大会では、あいつと当たるまで勝ち残る。そして、必ず打ち勝ってみせる……」
「え……た、高峰中って言ったら、ダントツの優勝候補ですよね……」
 私立高峰中。3年連続でけやき野地区を制している強豪校だ。それに比べて我が桜ヶ丘は、去年の大会では2回戦敗退。その前の年までは公式戦1勝もできなかった、伝統ある弱小校だ。だからこそ隆が4番投手などという無茶な位置にいられるのかもしれないが……いかに彼がすばらしい投球をしても、高峰に勝つなどというのは夢物語に等しかった。
「ああ。でも、今年はきっと勝ってみせる。みんなの技術も上がってきたし、今年は藤倉のリードがあるしな」
「えっ……藤倉くん、本当にキャッチャーやるんですか?」
 藤倉学。2年生の学力トップで、生徒会会計長。桜ヶ丘の頭脳という称号をほしいままにする秀才だ。だが、お世辞にも運動神経、反射神経はよろしくなく、昨年の大会では9番ライトで出場し、打率0割0分0厘という輝かしい記録を残している。
「ああ。あいつの裏をかける中学生なんていないからな。それに、何も考えずに打てるほど、俺の球は甘くないつもりだ。打たれさえしなければ、守備の心配もしなくていいからな」
「はい。……でも先輩……前も聞きましたけど、どうして高峰に行かなかったんですか? 監督から誘われてたんじゃ……」
「…………」
 それを聞いて、少しだけ隆が口ごもる。
「……あんな遠いとこ、通うの面倒だろ?」
「え……はい。でも……」
「決めた理由はそれだけ。それに、強いチームで勝ったって面白くないだろ。やっぱり、勝負ってのは盛り上がってこそ……」
 隆の言葉は続く。百合は、外野手が取り損ねた打球を拾いに行くのを見ながら、やはりその言葉に疑問符を浮かべていた。


「おつかれさま」
「おつかれさまです、美典先輩」
 男子が去った後の部室で、百合と美典が制服に着替えている。男子ばかりの部活に女子が二人だと、こういう時はちょっと不便だ。
「すごかったね、百合ちゃん……さっきのピッチング」
「いえ……あれくらい、ちょっとソフトボールをかじればできますって」
「む、無理だよ〜。私、そんなに腕回らないし」
 ぶんぶんと……見える程度の速さで、美典が腕を回す。
 確かに、美典には無理そうだ。献身的な性格は百合と同じだが、運動神経と仕事の正確さでは百合に一歩も二歩も譲っている。幼なじみの隆が特別なのは仕方ないが、他の部員にもできる限り分け隔てなく接してくれるため、男子からの評価は二人拮抗しているのだが。
「それより百合ちゃん、朝、ちゃんと起きられた?」
「えっ……はい。もちろんですよ」
(朝から早坂先輩に会えるんですから……)
 その言葉をぐっと飲み込む。恋する乙女だけあって、他人の気持ちには敏感だ。美典の隆に対する気持ちが、単なる幼なじみ以上であることは間違えようもない。
「すごいなぁ……私、わかっててもついぎりぎりまで寝ちゃって……朝ごはん食べる時間なかったよ」
「あ……いえ、私も、起きたはいいんですけど……お母さんが完璧に寝ちゃってて……結局、朝ごはん抜きですよ。もう……」
「そうだったんだ……大変だね」
「まあ……明日からは大丈夫でしょうけど」
「うん。……あれ、百合ちゃん、それって水着……?」
「はい。今日から天気次第では水泳をやるって。今日の最高気温、29度らしいですから」
「えー……私、持ってきてない……1時間目体育なのに……」
「いえ……1時間目だとさすがに冷たいからないんじゃないですか? 私は5時間目ですから……」
「そうかな……不安だなぁ……」
「大丈夫ですって。たぶん、忘れてる人も多いですし」
「そうかな…………あ、それじゃそろそろ、教室行くね」
「はい。それじゃ」
 そう言って、二人が部室を後にする。
 一瞬遅れて、ホームルーム開始5分前の予鈴が鳴り響いた。


「あっ……瑞奈ちゃん、おはよう!」
 教室に入る直前、前を歩いている女の子に声をかける。陸上部2年生のエース、紀野里瑞奈だ。身長は百合より一回り大きいが、身体はより引き締まっているように見える。膝丈のスカートを履いていてもなお、その活発さがわかるほどだ。
「あれ……百合ちゃん。今日から朝練?」
 その瑞奈が、振り向いて返事をする。1年のときから同じクラス。野球部マネージャーと陸上部のエースという立場の差はあれど、活発な女の子同士。仲良くなるのは自然なことだった。
「うん。陸上部も?」
「ううん……まだ。7月の大会前だけだって」
「そう……じゃあ、まだ楽だね」
「そうだけど……あーあ、せっかく今日から大丈夫だったのになぁ……」
「あ……そうだね……」
 苦笑する百合。瑞奈はちょっと事情があって、昨日まで数日間部活動を休んでいたのだ。
「朝練でお姉さまに会いたかったなぁ……」
「まあまあ。放課後になれば会えるんだし……」
 瑞奈を慰めつつ教室に入る。「お姉さま」とは、瑞奈の先輩である陸上部の3年生のことだ。その人にべったりなのが珠に傷かな……と、百合はいつも思っている。もっとも、百合自身も人のことは言えないかもしれないが……。


 そして、時は流れ……昼休み。
「百合ちゃん、みーつけたっ!!」
「きゃっ!? は、早すぎるよっ!!」
 慌てて走りだす。見つかったからには、グラウンドのホームベース近くに置いてある缶を、鬼である瑞奈より早く蹴り飛ばさねばならない。
 ……が。
「はい、次は百合ちゃんが鬼ー」
「はぁ……はぁ……」
 全速力の百合をあっという間に追い抜き、瑞奈が缶を踏みつけて待っていた。
「いくら百合ちゃんでも、ボクより早く走ろうなんて無理だよ」
「うん……そう……だね……」
 息を整える。
「あれぇ……? 今日もやってるのぉ? さえも混ぜて混ぜて」
「あ……沙絵ちゃん」
 1年のとき同じクラスだった来島沙絵。いつもぼけーっとして、ちょっと浮世離れしたところがあるが、裏表のない憎めない子だ。
「沙絵ちゃん、史音ちゃんはどうしたの?」
「ふみふみ? えーとね、今日は図書委員のお仕事」
「そっか。じゃあさすがに呼べないね」
「うん」
「沙絵ちゃん、どうする? せっかくだから鬼やってみたい?」
「うん。やらせて」
「じゃあ……お願いね。百合ちゃん、隠れるよっ!!」
「う、うんっ!」


「……あれ?」
 旧校舎の裏に隠れようと走ってきた百合の前に、見覚えのある後ろ姿が映った。自分と同じくらいの背丈に、三つ編みの髪の毛……わずかに斜めを向けば、フレームつきの眼鏡が見えることだろう。去年のクラスメート、舟崎史音だ。
「史音ちゃーん!」
「え…………あ……澄沢さん……」
 史音の元へ駆け寄っていく。
「史音ちゃん、今日は図書委員のお仕事?」
「え……あ、はい……澄沢さんは?」
「あ……今、瑞奈ちゃんや沙絵ちゃんと缶けりの途中」
「あ……じゃ、じゃあ……隠れないといけないんじゃ……?」
「そうだね。でも、もう少しくらい大丈夫かな」
 そう言って、もう少しだけ話を続けようとする。
「あ、いたいた。舟崎さん!!」
 そこに響く男子の声。まだ声変わりしきっていないのか、高い音程の声だ。
「えっ……あ……ふ、藤倉さん?」
「あ……藤倉くん。どしたの?」
「あ……本の貸し出し、お願いしようと思ったんだけど……邪魔だったかな?」
「い、いえ、邪魔なんて別に――」
「そ、そうだよ。私も、もう行くから」
「あ……」
「す、澄沢さん……あっ……」
 まだ戸惑っている学を置いて、百合は校舎の裏へと駆け出す。
(二人きりにしてあげなきゃ……ね)
 林間学校の夜に女子の部屋で行われた、好きな人告白大会。そこで最後まで黙っていた史音が、消え入るような声で口にした名前。それが、藤倉学だった。
 彼は学年一、もしかすると学校一の秀才だし、容姿も男らしさとは無縁だが均整が取れている。その上、史音は毎日のように図書室で顔を合わせているはずだ。好きになることに不思議は何一つない。
 ただ、学の方はというと……今一つ態度がはっきりしない。奥手なだけかもしれないが、少なくとも自分が見ている限りでは、史音のみならず、女子とまともにしゃべる様子すら見たことがない。
「……なかなか、うまくいかないよね……」
 自分と同じような状況に、思わずため息をつく。
「ゆーりー、みっけ」
「……え?」
 上の空で歩いていた百合。……気がつくと、彼女の目の前には沙絵……缶けりの鬼が立っていた。
「ちょ、ちょっと待って――」
「待ったなしー」
 再び、競走が始まる。
 足の速さで勝る百合と、缶までの距離で勝る沙絵。
 今度は、互角の勝負だ――。


「はい、普段の体育以上に、準備体操をしっかりやること!」
 5時間目。百合や瑞奈たち2年1組の女子は、紺のスクール水着に着替えてプールサイドに整列していた。プールの四隅を分け合うように、同じクラスの男子と、3年生の男子と女子が並んでいる。
「準備運動なら昼休みに十分やったよね……」
「うん……」
 隣に立つ瑞奈と、そんなささやき話をする。もちろん、女子体育担当の木崎先生に聞こえたら大目玉だ。
「ねえ、向こうって3年生だよね?」
「うん、たぶん……」
「お姉さま、いないかな……? えーと……」
 また始まった。そう思いながら、苦笑を浮かべる。瑞奈に合わせるように、何気なく視線を同じ方向に移すと……。
「あっ……」
 周りの生徒と特に変わらない身長、体格。それでも、その纏う気配は確実に異彩を放っている。何気ない動作の一つ一つに、気品と風格があふれている。
(白宮先輩……)
 この中学校の生徒なら……入学間もない1年生でさえも、その顔と名前を知っているだろう。男子生徒全員のアイドル、女子生徒全員の憧れと言っても過言ではない。桜ヶ丘の顔、白宮純子であった。
(……と、いうことは……)
 純子がいるということは、あのクラスは3年2組。そのクラスには――。
「先輩っ!!」
 思わず声が出てしまう。
 そう……百合のあこがれ、早坂隆の姿がそこにあった。
(先輩……)
 だが、百合の声は隆には届いていなかった。その視線は、彼と同じクラスの女子……純子の方に向けられていた。
(やっぱり、白宮先輩の水着姿が気になるのかな……)
 見た感じでは純子もグラマーというよりはスレンダーな方だが、起伏のほとんどない百合とでは比べ物にならない。このスクール水着が似合うという点では、百合の方に分があるかもしれないが……。
「澄沢さん」
「はい……あっ!?」
 呼ばれる声に振り向くと、そこには穏やかな笑みを浮かべた先生の顔。
「……水の中で準備運動がいいかしら?」
「す……すみませんでしたっ!!」
 平謝り。
 百合は必死に謝り、シャワーのあと再度の準備運動を申し出て、何とか罰を免れることに成功した。


「寒っ……」
 冷たいシャワーに冷たい消毒漕。それを存分に味わったあと、プールに入っていく皆を横目に風を受けながらプールサイドで屈伸をしているのだ。
(先輩は……)
 視線を送ると、今まさにプールに飛び込むところだった。さすが野球部のエースたるスポーツマンだけあって、引き締まった体つきである。思わず見とれてしまうのは避けられなかった。
(気付かれてなくて良かったかも……)
 あこがれの先輩に、居残り準備運動などという恥ずかしい姿を見せるわけにはいかない。百合は早くこの義務を終えようと、最後の深呼吸を始めた……。

 息をいっぱいに吸い、力を抜いて吐き出したその瞬間だった。
  グルル……。
「えっ……?」
 おなかの中で、何かが動いた気がした。
(いけない……おなか冷やしちゃったかな……)
 感じた違和感に、どうしても不安になる。身構えて数秒待つが……とりあえず、それ以上の変化はなかった。
(早く入っちゃおう。水の中の方が温かそうだし……)
 そう思い、百合は走りだし、プールサイドから水中に飛び込んだ。

 ……それから10分。
 百合は、水の中である欲求を必死にこらえていた。
(おトイレ……おトイレ行きたい……)
 排泄欲求。それもよりによって、大きい方である。
 普段は毎朝家でしてくるので、めったに学校でもよおすことはないのだが……今日は朝ご飯を抜いたこともあって、その後にトイレに入るという習慣までないがしろにしてしまったのだった。
 もっとも、百合は仮に学校で便意をもよおしても、家まで我慢しようとするのが常であった。家以外のトイレで大便をするのは、彼女にとってあまりにリスクが大きいからだ。そのリスクとは……トイレを詰まらせてしまうことである。

 小学校に入った頃から気付いたことだが、百合は同じ体格の女の子に比して、排泄する大便の量が異常に多い。便秘などではなく毎日便通があるのに、その量がすさまじく多いのだ。和式トイレですればおしりの下にどっかりと黄土色の山を作り、洋式ですれば溜まっている水からはみ出すほどになる。水のような下痢をすることこそめったにないが、黄色みの強い柔らかいうんちを毎日、大量に吐き出してしまうのだ。
 中でも、ひとたび和式トイレでしようものなら、山となった大便が水流でも流れずに残ってしまうこともある……いや、かなりの確率でそうなってしまう。だから、間違っても学校では排便はできないのだ。

 そのうえ、今は……。
(早坂先輩の前で……こんな……)
 そう、同じ空間にあこがれの先輩がいるのに、トイレに大便をしに行くなど、恋する乙女にとって死にも等しい行為である。ましてや、人並の数倍の量がある大便、その音、臭い……そんなものを知られてしまったら、もう冗談ではなく生きてはいけない。
  ゴロッ……。
「うっ……」
 強まる便意に、水の中で中腰になって耐える。冷えたせいか、いつもよりおなかがゆるくなっているようだ。我慢するのが、少しづつ困難になっていく。
(どうしよう……授業終わるまで、我慢できないかも……)
 授業が終わって、先輩の姿が見えなくなってからトイレに直行しても、30分は待たねばならない。着替えていたらさらに十数分。6時間目が終わるまでは2時間。部活が終わって、家まで帰るには5時間はかかる。
 わずか10分で便意の極限に達してしまった百合にとって、そんな数字は夢物語をさらに通り越している。この授業中に漏らしてしまうかどうか、百合はその瀬戸際にいるのだ。
  グルル……。
「あぁ……」
 急激とは言わないものの、少しづつおしりの穴に大便が下りてくる。もう、力を抜けば出てしまうほどだ。
(どうしよう……もう我慢できない……おトイレ……)
 プールに併設されたトイレが目に入る。男女共用で、相当に古く汚い。今までは使ったこともなかった。
 だが……その場所が、何とまぶしく見えることか。あそこに駆け込んで、思う存分便意を解放する……そんな誘惑が、彼女の頭に浮かぶ。
(今なら……せめて、先輩に気づかれないうちに……)
 そう思い、プールサイドに上がろうと一歩踏み出そうとした時だった。
「あ、澄沢じゃないか」
「あ……せ、先輩……!?」
(ど、どうしてこんな時に――!?)
 百合にとってはあまりに最悪なタイミングで、隣のコースにいた早坂隆が声をかけてきた。3年生のほうも自由時間になっていたらしい。
「澄沢、放課後もまた、打撃練習頼めるか? 今度は、あのペースで全員に……」
「は……はい……っ……」
 水の中で、百合が腰を震わせて便意に耐えている。まだ手で押さえるほどではないが、ある程度我慢しやすい体勢を取っていないと、どうなるかわからない。
「……やっぱ、まだ冷たいか?」
「は……はい……えっ……?」
「ほら、プールの水。澄沢、震えてるだろ」
「あ……い、いえ……あ……そ、そうですね……ちょっと、冷たいかも……」
 否定しようとするが、身体が震えているのはまるわかりだ。だったら、水温のせいにしておいた方がいい。便意を我慢して震えていると知られたら、もう二度と先輩に顔を――。
「そっか。寒かったら、上がってひなたぼっこでもしてればいいんじゃないか」
「あ……いえ……大丈夫です……」
「あ……そっか。そうすると、俺らから水着姿が丸見えだからな……」
 言いながらちょっと顔を赤くする隆。
(先輩、私のこと……ちゃんと女の子として見てくれてるんだ……)
 そのことが純粋に嬉しかった。これで、おなかとおしりの苦しみさえなければ、どれほど幸せなことだろう……。
「じゃ、じゃあ……また後でな」
「は、はい……失礼しますっ……」
 隆がプールの底を蹴り、クロールで離れていく。百合はその姿を、前かがみの体勢で、上目遣いで見送った。
(せっかく、先輩が話し掛けてくれたのに……)
 いつもならそれだけで嬉しいことだ。だが今は……紙一重で便意をこらえている、こんな恥ずかしい姿で……。気付かれないようにするだけで精一杯で、何も……。
  ゴロロロ……
「うぅぅぅっ……」
 さらに強まる便意。だが……先輩に気付かれてしまった以上、ますますトイレには行けなくなってしまった。絶望的とも思える授業終了までの30分を、必死に耐えるしかない。


「はい、それでは整列して! 25m一本づつ泳いで、後は自由時間。シャワー浴びて上がってもかまわないわ」
「はい!」
 百合以外の女子が声を上げる。……いや、もう一人だけ、声を上げられない状態にいる者がいた。
「……み、瑞奈ちゃん……どうしたの?」
 ふらつきながらも、自分より顔色の悪い親友に声をかける百合。
「百合ちゃん………ボク……おなか痛い……」
「え……瑞奈ちゃんも?」
「百合ちゃんもなの? うぅ……だ、だめ……」
  グギュルルルルルルッ……。
 百合のおなかより、一層切羽詰った音が瑞奈のおなかから奏でられる。
「き、昨日までで治ったと思ったのに……うぅぅっ……」
「瑞奈ちゃん……」
「も、もうだめっ……ボク、トイレ行ってくるっ!!」
「あ……瑞奈ちゃん……」
 先生にその許可をもらいに行く瑞奈。取り残された百合は、自分のおなかの具合と相談する。言いようのない重い感覚。そして、今にもあふれそうなおしりの圧迫感。この状態で25mを泳ぎきるのは、限りなく不可能に近い。
(どうしよう……)
 そっと3年生のほうに視線を送ると、先生が男子と女子を集めて何らかの説明をしている。
(い、今なら……)
 先輩に気付かれずにトイレに……。そう思った百合は、急いで瑞奈の後を追った。

「先生……ト、トイレに行ってもいいですかっ!!」
「え……25m泳いだら自由時間なのよ。それからじゃダメ?」
「おなかが痛くて……もれちゃいそうなんですっ……」
  ギュル……ゴロロロロロロロッ!!
 プールサイド一帯に聞こえるほど大きな、おなかの音。それを聞いて、さすがに先生も後ずさりする。
「……し、仕方ないわね……そのまま上がっていいわ。行ってきなさい」
「は、はい……」
 目の前で瑞奈がトイレに向かって走りだす。
「せ、先生……あの……私も、おトイレに……」
「澄沢さんまで……? あなたも我慢できないの!?」
 強い語調。声も心なしか大きい。
(せ、先輩に聞こえちゃうっ!!)
「あ、あの……お願いします……」
「紀野里さんほどひどくないんでしょう? だったら、泳いでから行きなさい。そのくらい我慢できない歳じゃないでしょう!」
「うぅ……は……はい……」
 そうするしかなかった。切実な窮状を訴えようにも、先輩の耳に入る可能性のあるこの場所では、とても自分の状態を言葉にはできない。
(今泳いだら……プールの中で出ちゃう……)
 水泳は比較的得意な百合だが、今の状態では25mを泳ぎきる自信すらない。そう思いつつも、彼女は飛び込み台に登るしかなかった。便意をこらえながらの、文字通りのへっぴり腰。踏み切りさえ満足にできず、倒れるように水中に飛び込む。
  バシャーーーーン!!
(痛っ……!)
 体勢が不十分だったせいか、頭からではなく胸から水にぶつかってしまった。当然、続いておなかが圧迫される。
「うぅぅ……ぐ、ごぼっ!!」
 うめき声に口が開き、その隙間から水が流れ込む。
「……ぷはぁ!!」
 必死にもがいて脚をつけるしかなかった。だが、身長の低い百合では、プールの淵では満足に顔を水面に出せない。結果として、必死につま先立ちをして、小刻みな跳躍で顔を出し、呼吸を整えるしかなかった。だが……
  グギュルルルルルッ!!
「ひぁっ!?」
 そんな無茶な運動をすれば便意が高まるのは必至である。百合は息を止めて、襲いくる便意に耐えた。顔まで水中に沈むが、それをかまってはいられない。
「……はぁ、はぁ……」
 何とか耐え切った。もう、迷っている暇はない。……とにかく、無理な負担をかけず、早く前に進まなくては……。
「ん……ぷぁ! はぁ……はぁ……」
 脚を大きく開く余裕もないため、満足にバタ足すらできない。腹筋を使う平泳ぎなど論外だ。犬かきのような不格好な泳ぎ方で、ほとんど手の掻く力だけで進んでいく。
  ゴロロロッ!!
「あぁぁ!!」
 すさまじい便意。もう泳ぐどころではない。おしりの穴を両手で押さえ、今にも出ようとする汚物を押さえ込む。
 ………。
(だめ……だめっ……)
 勢いが弱まらない。
(あぁぁぁ……)
 痙攣を始めた手は、その締めつけを一瞬緩め……。

  ゴボゴボゴボッ!!
(ひぃっ!?)
 何かが肛門をすり抜ける。
 水の中で弾ける音。
 そして……一瞬遅れて、身体の前後に浮き上がってくる気泡。

(……お、おならだった……?)
 押さえる手の先には、相変わらず震える肛門の感覚。どうやら、もらしてはいないようだった。プールの中で軟便をおもらしなどしたら、大恥どころではない。百合は、最悪の事態を避けられたことにほっと一息を……。
「うぅっ!?」
 再度盛り返す便意。
 ……もう、限界だった。
 飛び跳ねるようにプールの壁に飛びつき、よじ登る。
 四つんばいでプールサイドに上がると、慎重に立ち上がり、一目散にトイレに向かって走りだした。

 ちょうど先生の話が終わったばかりの3年生たちはみな、呆然と彼女に視線を注いでいたが……もちろん、百合にはそんなことを気にする余裕があるはずもなかった。
 ただ、転びそうな足取りでトイレを目指すだけである。


「はぁ………あぁぁぁぁぁっ……」
 トイレの個室の前。おしりを押さえながら、震える手でドアを開ける。もう一方の個室からは、断続的に響く排泄音。だが、百合の頭の中は、自らの排泄欲求のことで一杯だ。
「うぅっ……あっ……」
 個室に駆け込む。目の前には、奥を向いた白い便器。その中は、はるか下へと黒い空間が広がっている。
(汲み取り式……!?)
 驚いた。この学校に、そんな便所が残っていようとは。アンモニア臭もきつく、決して好ましい衛生環境とは言えない。だが……水洗でないということは、少なくともトイレを詰まらせる心配はしなくていいということだった。
(早く脱がなきゃ……あ……み、水着……!?)
 いざ個室に飛び込んだが、脱いでおしりを出さないことには排泄できない。今身にまとっているのは、上下一体型の、競泳用に近いスクール水着。そう簡単に脱げるものではなかった。こうなったら、股の部分だけをずらしておしりの穴を出すしか……。
「うっ……あ……あっ……!?」
 必死に、股の部分の生地を引っぱろうとする。だが、プールの水と冷や汗で肌に張り付いた水着は、なかなか手に引っかかってくれない。
「は、早く……早くっ……」
 だが、焦れば焦るほど思いはかなわず……。
 そして……ついに。

  ブボボッ!!

「あぁぁっ!?」
 驚愕の声。
 水着の中に放たれた、温かい感覚。
 ……おもらし。
 うんちのおもらし。
 先輩が見てたはずのプールから、トイレに駆け込んで……。
 個室の中で、あと一歩の状態まで来て……。
 水着の中に……うんちをもらしてしまった。

(うぅ……)
 慌てて押さえた手に伝わる、柔らかく温かい感覚。紛れもなく、水着に漏らした軟便の感覚だった。
「うっ!?」
 第二波が、肛門を再び開かせようとする。
 その勢いは、もはや止めようがなかった。
 少しでも、水着を汚さないように……。百合は必死に、水着を脱ぎ始めた。

 肩ひもを外す。弾力の高い生地は勝手に縮んで、もう一方の支点である股のほうに降りていく。
 薄い胸に引っかかることなく水着がずり落ちたのは、女子として情けなくはあったが……一刻を争う状態の彼女には幸いだったかもしれない。ほとんど抵抗を受けず、淡いふくらみとほのかな色づきがその下から現れる。
 後は迷うことはない。両手で思い切り、脇から腰へと水着の生地をずり下げる。
 小さなおへそが、かすかなくびれを見せる腰が、そして……色のない産毛に覆われた股間が、その姿を現した。その後ろ……おしりの穴の周りは、茶色の軟便によって汚されていたが。

「――っ!!」
 あとは、しゃがむだけだった。

  ブビビビビビッ!! ブリリリリリリリリッ!!
  ブジュブリュブリュリュリュッ!! ビブブブブブブッ!!
  ビチブリブリブリブリッ!! ブリュビリュリュリュリュッ!!
「――ぁぁぁぁっ!!」
 ぎりぎり液状ではない、しかし水気をたっぷりと含んだ軟便が、百合のおしりからものすごい勢いで吐き出されていく。出し始めた便がはるか下の汚物漕の底に着くまで途切れることなく、百合は汚物を出しつづけた。
「ふっ、くぅぅっ……」
 まだまだ、おなかの中には大量のものが詰まっている。残らず、吐き出してしまうしかない。百合は少しづつ、おなかに力を入れ始めた。
  ブリュブリュブリュッ!! ブビブリリリリリリリッ!!
  ブリブリッ!! ブジュルブチャッ!! ミチミチミチミチッ!!
  ブビュブボボボボッ!! ブリュブリュブリュッ!!
  ビジュブリブリブリブリブリッ!! ブビビブゥゥッ!!
  ブリュブボブリリリリリリッ!! ブリィィィィィィィィッ!!
「はぁ……あぁぁぁっ……」
 もう、頭の中は排泄の感覚で一杯だった。耐えに耐えた末の排泄。おもらしに汚れた肛門を駆け抜ける、すさまじい量の熱い軟便……。みじめさをかき消すような爽快感が少しずつ、便意の苦しみに取って変わっていく……。
「あ、あぁ、あぁぁぁぁっ……」
  ブリリリブリィィッ!! ビュブボボボボッ!!
  ビュルブリブリブリッ!! ブリリリリリリリッ!!
  ビィィブリィィィッ!! ブニュルブジュブビィッ!!
  ブリリリリリブチャァァァッ!! ジュルブリリリリッ!!
  ブチュルブリブリブリブゥゥッ!! ビチブリブリブリブリッ!!
  ジュブニュルブリィィィィィッ!! ビジュブビブリリリッ!!
  ブリリリリリブリィィィッ!! ブリブボボボボボブビュルルルルルルッ!!
 軟便、柔らかい固形便、ゲル状便、そし飛沫のような液状便……様々に形を変えながら、百合は黄土色の汚物を生み出しつづけた…………。


「はぁ……はぁ……」
 噴出が、止まる。
 下痢というほどの腹具合ではなかったため、百合は腹の渋りを感じることなく、腸内の汚物をすべて出し切ることができた。
  ブビビビビッ!! ブチャッ!!
  ブジュブジュブプププッ!! ビィッ!!
「うっ……くぅっ……」
(あっ……瑞奈ちゃん、入ってたんだ……)
 苦しげなうめき声でもわかる、その声の主。
(まだ、止まらないの……?)
 隣の個室からは、まだ断続的な排泄の音が響いてくる。見た以上に、瑞奈の腹具合は悪くなっていたらしい。
「…………」
 声をかけようとして、一瞬思いとどまる。
 プール開き直後とあって汚物漕の中も空っぽになっていたのか、便器の下では自分の汚物が山を作っているのがはっきりと見える。この高さから落とされて、ベチャッと広がってなお作り上げた山である。もしこれが水洗便所だったら、流れないどころかおしりの高さにまで達していたかもしれない。
 そして、自分の真下にも見える、隣の便器から落とされたであろう液状便の滴。おそらく、肛門を出る段階で弾け飛んでいたのだろう。それが、百合の便の周りにまで散らばっていた。瑞奈の真下はどうなっていることだろうか。
 そして、二人分の汚物がかもしだす、あまりにも強烈な臭い。元からのアンモニア臭など物ともしない強烈な悪臭だった。瑞奈が出した下痢便の酸味混じりの臭いと、百合が出した大量の軟便の純粋な悪臭。とても、まぶしいくらい活発な二人の少女の身体の中にあったものとは思えない。

「……瑞奈ちゃん、大丈夫?」
「う、うん……もうちょっと……くぅっ……」
  ブリリリリリブチャッ!! ブジュルルルルッ!
  ビィィィィィッ!!
「……はぁ、はぁ……」
「がんばって、瑞奈ちゃん……」
「あ……ありがと……百合ちゃんは、大丈夫だった?」
「え……?」
「ボクはなんとか間に合ったけど……百合ちゃん、さっきすごい音したし……」
 おもらししなかったかということ。
 水着を下ろすのが間に合ったかということ。
 ……百合は……。
「だ、大丈夫。ま……間に合ったから……」
 股の間に丸められたスクール水着。その股の間、白い補助布にべっとりとまとわりついた茶色の汚れを見ながら、百合はそうつぶやいた。
「そう……よかった……くっ……」
  ブリリリリリッ!!
「瑞奈ちゃん!?」
「あ……ぼ、ボク、もうちょっとかかりそうだから……先に行ってて。たぶん、授業中には戻れないから……くぅっ!!」
  ブビビビビビブバッ!!
「あ……う、うん……わかった……」
 隣から響く破裂音を聞きながら、百合はおもらしの跡を拭うべく、わずかに巻かれた紙を手に取った。


  シャァァァァァァァァァァァッ……。
 百合の頭の上から、透明な水が降り注ぐ。
 その中でおしりの真下の部分を揉むようにして、百合は水着を洗っていた。

 拭き取ること数回。軟便のこびりつきが茶色い染みだけになった段階で、百合は水着を着なおして個室を出た。
 その頃には、3年生はおろか自分のクラスも解散して、シャワーを浴び終わって更衣室に帰っていた。
 ただ一人、先生だけが待っていた。もう隠すことはできないし、隠す必要もなかった。百合は、自分の便意が本当に切迫していたこと、瑞奈が相当ひどくおなかを下し、まだトイレで苦しんでいることを説明した。木崎先生も、これには何もいえなかった。
 そして……百合は一人シャワーを浴びて、汚れたおしりと水着を清めているのだった。

(私……なんてことを……)
 もう、おしりの汚れは流れ落ちているだろう。水着の染みさえ、消えているかもしれない。
 だが……百合の心に残った一点の染みは、今からまた広がろうとしていた……。
(先輩が、見てたかもしれないのに……)
 その目の前で……。
 おしりを押さえてトイレに駆け込み、あまつさえ個室の中でおもらし……。
 考えられる最悪の事態ではなかったが、光景を想像できる範囲では最低の行為だった……。
(もう……先輩に合わせる顔がないよ……)
 しゃがみこむ。
 頭の上から、冷たいシャワーが降り注ぐ。
 身体が冷えることもかまわず、百合は膝を抱え込んだ。
(先輩……早坂先輩…………ゆるして……許してください…………)
 嗚咽が漏れ、まぶたからは体温と同じ温度の水滴が溢れ出す。
 百合は、身体を通り抜けて心の中へ降り注ぐ冷たい雨の中で、大好きな先輩の名前を呼びつづけた。


 その後、百合は瑞奈が出てくるのを待って教室に戻った。

 ……6時間目の授業はすでに始まっていた。

 授業中、何をしていたか覚えていない。いや、そもそも何の授業だったかも覚えていない。百合の心には、ぽっかりと穴が空いていた。
 授業が終わると、瑞奈は部活に出ることなく帰っていった。あれほど「お姉さま」に会うことを楽しみにしていたのに……その胸中を思うと、百合まで切なくなる。
「待っててくれて……ありがと」
 瑞奈が去り際に残した言葉だけが、百合の心をほんの少し癒してくれた。


 放課後。
 百合は、教室の自分の机に突っ伏していた。

 瑞奈は……体調こそひどかったが、ただ単に授業中にトイレに行っただけに過ぎない。数日に一回は誰かがやってしまうこと、それだけだ。
 だが百合は……大好きな先輩の前で、みじめな格好でトイレに駆け込み、さらにおもらしをしてしまったのだ……。
 黙って帰るわけにも行かず、かといって顔を出すことなど考えられない。
 会って何を話せばいいのか。あのことを訊かれたら、何と言えばいいのか。
 考えれば考えるほど、百合の心を絶望が満たしていく。
(私、もうおしまいだよ…………)
 先輩に合わせる顔がない。もう、野球部にも顔を出せない。学校にだって。
 もう……なにも……。

「ここにいたのか、澄沢」
「え……っ!?」
 顔を上げる。クラスメートは全員帰っていた。そこにいたのは、いつもと同じユニフォーム姿の、早坂隆――。

「いつまで待っても来ないから、心配したんだぞ」
「あ……」
 ごめんなさい。申し訳ありません。
 ……その言葉が出て来ない。喉が震えて……。
「今日の部活。来ないのか? みんな待ってるぞ?」
「あ……でも……あの……」
 言葉が出ない。いや、たとえ喉から声が出ても、意味のある文章にできるだろうか……。
「……あの、さ」
「……?」
 一瞬、口ごもる隆。
「……さっきの、水泳の時――」
「っ!?」
 身体が震える。椅子ががたっと音を立てる。一番……一番触れられたくないことだった。

「――澄沢の友達、大丈夫だったか?」
「……え……?」
(友達。……瑞奈ちゃんのこと? でも、私は……私の方こそ、あの時……)
 思考の糸が絡まっていく。
「いや、なんかすごく青白い顔で先生と話してたからさ、あの子。ちょっと気になって」
「あ……瑞奈ちゃんは……あ、し、知らないですよね。えと、あの……」
 錯乱状態。
「いや、大丈夫ならいいんだ。無理して部活とかやってたら大変だなって思って」
「そ、それはその……さっき、帰りましたから大丈夫で、えっと……」
 歯切れが悪い。いつものハキハキした態度の百合とは大違いだ。
 ……もっとも、この状況で平静を保てる女の子などそうはいないだろう。鉄の精神力と完璧な判断力を持っていても、果たして言葉一つ出せるかどうか……。
「そっか。いや、あの後ずっと耐久遠泳をやっててさ、そっち見る余裕なかったから」
「え……っ……? ど、どういう……?」
「ん? ああ、息と体力が続く限り25mを往復しつづけるやつ。男子だけしかやらないから、知らないかもしれないけど。俺はえーと……12往復だったかな。そこでチャイムが鳴っちゃってさ」
「え……そんな……」
 それが本当なら、隆は本当に、百合のことを見ていなかったことになる。先生に便意を訴えたことも、限界を迎えてプールから飛び出したことも……。
「澄沢の水着姿、もうちょっと見たかったんだけどな」
「うそ……え……あの……」
 めったに言わない、軽口。
(先輩……もしかして、気付かなかったふりを……?)
 やっと、考えがまとまってくる。
「先輩……あ、あの……」
「なんだ?」
「あ…………」
 直立正視。
 隆の視線がまっすぐ、百合の瞳を貫く。
 その瞳には、野球の真剣勝負の時と同じように、一点の曇りもなかった。
 その瞳で、目をそらさずにずっと………。
 ………

「先輩っ!!」
 一歩、二歩。百合が、もつれそうに足を踏み出す。
 肩に手をかけ、胸に顔を埋める。

 そして……涙があふれた。

「先輩っ……私、私っ……」
「…………」
 隆は……じっと無言を貫いていた。

 まだ日が高い、夏の放課後。
 ……教室に、百合の泣き声だけが響いていた。


「……で、澄沢」
「……?」
 百合の嗚咽が収まった頃を見計らって、隆が声をかけた。

「練習、出られるか?」
「あ……」
「時間がないとか、用事があるとかだったら今日は――」
 体調が悪かったら、とは口にしなかった。
「あ……で、出ます。行きますっ!!」
 百合は弾かれるように身体を離し、隆の目を見据えて宣言した。
「そっか。じゃあ、グランドで待ってる」
「わかりましたっ……す、すぐ着替えて行きますねっ!!」
 いつもより強い語調で、百合が叫ぶように言葉を出す。
「ああ……でも、顔くらい洗ってこいよ? そんな赤い目だと、みんな心配する」
「え……あ…………」
 思わず、頬に手を当てる。
 シャワーを浴びながら。教室で突っ伏しながら。そして、隆の胸の中で。
 流した涙が、百合の可愛い顔をぼろぼろにしていた。
「……じゃあ、またな」
 そう言って、隆が背を向ける。そのまま、振り向かずに教室を後にする。


 その姿が見えなくなった後、百合は小さく口を開いた。

「……ありがとうございます、先輩……」

 この言葉を、隆に聞かせるわけには行かない。
 隆は、水泳の授業の後半、百合のことを全く見ていなかった。それゆえ、その間何が起こったかは全然わからない。ただ、今この時間、部活に出て来ないサボりの百合を連れ出しに来ただけ。
 そして、何にも悲しいことはないはずなのに、突然泣き出した百合に、戸惑いながらも部活に出て来いと告げた。
 それだけ。何も、感謝されるようなことはしていない。

 ……そういうことだ。

 だから、その彼に感謝の言葉を聞かせることはできない。そうすれば、彼の気遣いの介在を認めることになってしまうから。
 でも、どうしてもその言葉を言いたくて……小さな声で、自分にだけ言い聞かせた。

「せんぱい……早坂先輩……」
 いとおしいその名を、何度も口にする。
 いつもは物足りなく思っていた、何気ない態度。
 でも……今の百合には、それが一番嬉しかった。
 そして、今日この時に、そんな態度をとってくれた隆を……百合は、今までより一層、強く想うようになった。

(もし、許されるなら……これからも、先輩とずっと一緒に……)
 そう、祈る。

 ……意味のない祈りだった。

 なぜなら百合は、許される必要がある行為など、何一つしていなかったのだから……。


あとがき

 自分的第二のメインヒロイン、澄沢百合ちゃんです。水色髪ショートカットの後輩キャラ、声優は春野日和でお願いします(笑) 本当は「水色髪」って文中に明記したいところなんですが、日本人の髪の色をそんな無茶に書くのはどうかなと思いまして。想像するときだけ水色髪で。あとはスクール水着も新型って書くと一発なんですが、文章中ではある程度キャラの考えに即しますからね……難しいです。
 排泄関連設定ですが、まあ一番簡単に言ってしまうと「大量うんち」。なんて身も蓋もない設定でしょう。病気ということにできない分、ひかりよりも恥ずかしいかもしれません。これからも、自分の体質と恋心と、思う存分板ばさみになっていただく予定です。

 今回のテーマは単純。恋する乙女の排泄物語です(笑)。雰囲気を出すため、他の2年生の恋愛関係も一気に語ってしまいました。ただ、まだキャラ紹介のレベルなのであまり深くは描かずにおきましたけど。
 最後で隆君がすっごく格好いい人になってしまいました。フォロー技能マスターレベルです。さすがひかりの兄、場数を踏んでるだけありますね。

 さて次回、第4回でメインキャラが勢揃いします。
 主役は学園のアイドル、白宮純子。誰にも語ることのできない、彼女の秘密とは――。
 まだ見ぬ3年生の新ヒロイン。ちりばめられた1年生2年生を線でつなぐ、その少女の正体は――?(←大げさ)
 つぼみたちの輝き Story.4「純白に秘めた想い(仮)」。ご期待下さい!


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